01年5月、東京ドームでのヤクルト戦の観戦に訪れていた渡辺恒雄オーナーは立ち上がって手を振った、左は中曽根康弘元首相

<悼む>

読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏(98)が19日未明、都内の病院で死去した。

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【悼む】私がこの業界に入社したのが1991年(平3)の4月。渡辺氏が読売新聞社の代表取締役社長、主筆に就任したのが同年の5月だった。プロ野球の記者として27年の歳月がたつが、渡辺氏は、ずっと球界のドンとして絶大な影響力を誇っていた。

「ナベツネ」を知らない人はいないだろう。残した足跡は圧巻のひと言。長嶋茂雄氏の巨人軍監督再登板に始まり、ドラフトの逆指名制やFA制度の導入と整備、10球団1リーグ制を推し進めるたび、取材に振り回され続けた。四ツ谷に住んでいたころの自宅への張り込みは、通算何時間になっただろう。

巨人に有利なルールばかりをねじ込もうとする強引なやり方、発言の過激さから、怖い権力者というイメージが定着しているのではないか。しかし私だけでなく「ナベツネ取材」を楽しみにしていた記者は多かった。

フラフラと真っすぐに立てないほど酔っぱらって帰宅し、こちらの度肝を抜くような“爆弾”を次々と投下。とにかく期待を裏切らなかった。

同じ新聞業界とはいえ、一般紙最大手のトップと、スポーツ新聞の若手の末端記者たち。泣く子も黙る百獣の王のライオンを相手に、ノミが群がってまとわりつくような対戦の構図ができあがった。

小さなウサギがライオンを怖がっても、小さすぎるノミはライオンを怖がらない。赤ら顔で機嫌のいいときなどは、まったく遠慮せずに質問し書きたい放題。「もう君たちとはしゃべらん! だいたい、人のことを勝手にナベツネとか呼び名を付けるな!」と激怒したこともあった。「怒っちゃったなぁ」と話しながらも、反省はしなかった。

記者出身だけに、“ノミ軍団”への懐は実に深かった。

何カ月か話さないこともあったが、いつの間にか必ずしゃべってくれるようになる。寛容さは家族も同じ。当時は自宅から通勤していた息子さんも、ピンポン攻撃で所在を確認すると、Tシャツとパンツの大物感漂う姿で「今日はいないよ」とか、とにかく対応してくれた。

許してくれていたかは確認することがなかったが、仲間内での夫人の呼び名は“ナベツマ”だった。「ツマ」は「妻」で、いつも穏やかに対応してくれて「今日はナベツマしかいないから帰れるぞ」と帰宅した日々も覚えている。

近年は直接取材することもなくなり、露出する機会もほとんどなかった。悲しみというより、大きな喪失感が胸の中にある。【小島信行】

情報提供元: 日刊スポーツ
記事名:「 【悼む】「ナベツネ取材」記者も楽しみに…渡辺恒雄氏、酔って次々“爆弾”投下 期待裏切らず