シカは肉食のコヨーテより「野生化したブタ」の声のほうがよく逃げた
森で食事中のシカが、ふいに顔を上げて走り去る。
そんな場面で思い浮かぶのは、シカを狙う肉食動物の姿でしょう。
米テキサスA&M大学キングズビル校などの研究チームは、森の餌場で野生のオジロジカに3種類の動物の声を聞かせてみたところ、シカが最も逃げ出したのは、シカを襲うコヨーテの声ではなく「野生化したブタ」の声だったのです。
命を狙う相手より、食卓を奪う相手のほうが、シカを餌場から追い払っていたことになります。
なぜシカは、命を狙う捕食者より、餌を取り合う相手の声から逃げ出したのでしょうか?
研究内容の詳細は2026年10月5日付で『Scientific Reports』に掲載されました。
動物の「怖いもの番付」の主役は、これまで捕食者だった
動物が何を恐れているかは、わかりきったことのように思えます。
自分を食べる相手です。
しかも捕食者が獲物に与える打撃は、実際に捕まえて食べた分だけではありません。
危険を感じた獲物は、危なそうな場所を避け、食事を切り上げ、頭を上げて見張る時間を増やします。
そのぶん食べる量が減り、生きのびることも子を育てることも難しくなります。
捕食者は、獲物を食べなくても、怖がらせるだけで獲物の暮らしを削っているのです。
この見方は「恐怖の生態学」と呼ばれ、肉食獣の声をスピーカーで流すだけで草食動物が食事をやめて逃げ出すことが、各地の実験で確かめられてきました。
そこで研究者たちは、どの相手の声が動物をいちばん逃げ出させるのかを比べてきました。
いわば「怖いもの番付」づくりです。
たとえば南アフリカのサバンナでは、ライオンのうなり声より人間の話し声のほうが、多くの動物を水場から逃げ出させました。
狩りで大量の動物を殺す人間は、いまや「スーパー捕食者」とも呼ばれています。
つまり「怖いもの番付」は、これまで主に「誰に殺されるか」という物差しで作られてきたということです。
餌を奪い合うだけのライバルは、調べた研究すらごくわずかで、番付の土俵にほとんど上がっていなかったのです。
ただ、食事中の動物を悩ませる相手は、捕食者だけではありません。
同じものを食べる競争相手もいます。
競争相手は、餌を先に食べてしまうだけでなく、餌場に乗り込んできて、こちらを押しのけることもあります。
このとき奪われるのは、食べ物というより、食べている「席」のほうです。
命は無事でも、その場の食事はおしまいになります。
今回の舞台となったテキサス州東部の森には、その両方がそろっていました。
一方は、この森でいちばんの捕食者で、大人のオジロジカも子ジカも襲うコヨーテです。
もう一方は、人が持ち込んだブタやイノシシが野に広がった外来種、「野生化したブタ」です。
ブタはもともとイノシシを家畜にしたもので、生物としては日本の山にいるイノシシと同じ種にあたります。
食べるものも暮らす場所もシカと重なり、ドングリの前からシカを荒々しく追い払う姿も報告されています。
大人のシカを調べた今回の研究で、ブタは捕食者ではなく、食卓を争う競争相手として比べられています。
命を狙う相手と、食卓を奪う相手。
これまでの番付の物差しに従えば、シカがより強く逃げ出すのは、コヨーテの声のはずです。
研究チーム自身も、実験の前にそう予想していました。
シカを最も逃げ出させたのは、コヨーテではなくブタの声だった
本当に、命を狙う相手の声のほうが、シカを強く餌場から追い払うのか?
確かめるために研究チームは、シカが実際に食事をしている場所へ、声だけを届ける仕掛けを持ち込みました。
2024年の夏、研究チームは森の34カ所に、トウモロコシをまいた餌場を用意しました。
そばの木には、カメラとスピーカーを組み合わせた装置を取り付けます。
シカが餌場に来るとカメラが20秒の動画を撮りはじめ、10秒たったところで、スピーカーが10秒間だけ声を流す仕組みです。
流すのは、コヨーテ、ブタ、そしてシカにとって何の脅威でもないアメリカフクロウの声です。
フクロウの声は、危険のない相手の声でも、急に聞こえればどれくらい逃げるのかを測っておくための物差しです。
どの声も悲鳴ではないふだんの鳴き声を選び、音量もそろえて、ブタの声だけが騒がしかったということがないようにしました。
こうしておけば、反応の違いを音の大きさのせいにはできません。
論文の筆頭著者であるシーザー・クレバーグ野生生物研究所のパーカー・トリフィレッティ氏らは、こうして集めた528回分の記録を1本ずつ見ていきました。
結果は、研究チーム自身の予想を裏切るものでした。
シカが餌を捨てて走り去る確率は、コヨーテの声でオス42%、メス64%でした。
ところがブタの声では、オス74%、メス81%にのぼったのです。
危険のないフクロウの声でも、逃げる確率はオスでおよそ12%、メスでおよそ41%ありました。
この分を差し引いた上がり幅で比べても、ブタの声はオスでもメスでも、コヨーテの声を大きく上回ります。
つまり、餌場のシカをいちばん慌てさせたのは、命を狙う捕食者の声ではなく、食卓を争うライバルの声だったということです。
捕食者が主役だった番付の上位に、“食卓荒らし”のブタが、本命のコヨーテを押しのけて、しれっと割り込んできたわけです。
しかも、ブタの声の効き目は、その場かぎりではありませんでした。
カメラは、シカが餌場に現れるたびに動画を撮ります。
そこでブタの声を聞かせたあとの30分間に、シカが映った動画の本数を数えてみると、フクロウの声のときに比べて、オスで32%、メスで28%少なくなっていました。
コヨーテの声で減ったのはオスだけで、それも13%にとどまります。
ブタの声を聞かせたあとは、餌場の“客足”が3割ほど落ちたことになります。
餌を取り合うだけのはずのブタの声が、なぜ捕食者の声より強く、シカを餌場から遠ざけたのでしょうか。
残ったシカの反応が、コヨーテとブタでくっきり分かれた
ブタの声は、シカにとっていったい何の合図だったのか?
手がかりは、逃げずにその場に残ったシカのふるまいにありました。
研究チームは、残ったシカについて、声が流れる前の10秒と流れている10秒とで、頭を上げてあたりを見張る時間が増えたかどうかも調べていました。
見張る時間が増えやすかったのは、フクロウの声と比べて、コヨーテの声を聞いたときだけでした。
ブタの声では、フクロウの声との差は出ていません。
代わりにブタの声で目立ったのは、残ったメスが音から離れていく動きでした。
コヨーテの声には、残ったシカがその場で身構える。
ブタの声からは、残ったメスまでもが距離を取る。
逃げずに残ったシカでさえ、2つの声への構え方ははっきり違っていたのです。
研究チームは、この違いを次のように読み解いています。
コヨーテの声は遠くまで届くので、聞こえたからといって、相手がすぐそこにいるとは限りません。
声がするたびに食事を放り出していたら、きりがありません。
頭を上げて様子をうかがうほうが割に合います。
一方のブタは、シカと同じ餌を同じ場所で探す相手です。
餌場で鉢合わせれば、体の大きなブタに押しのけられ、食事の場を失います。
もみ合いになれば、けがをする危険もあります。
命を落とす危険は、本来なら何より重いはずです。
しかしこの森の餌場では、ブタと鉢合わせるコストのほうが、捕食者に襲われる危険より重く見積もられているようだ、と研究チームはみています。
つまり研究チームの見立てでは、コヨーテの声は「どこかに危ないやつがいるかも」という注意報、ブタの声は「この食卓はもうすぐ取り上げられる」という退去通告だった、ということです。
注意報なら、その場で顔を上げて様子を見ればすみますが、退去通告が出たら、ぐずぐずせずに席を立つほうが身のためです。
研究チームは、こうしたブタを「スーパー競争相手」と呼んでいます。
ブタは繁殖力がきわめて高く、何でも食べ、さまざまな環境に住みつきます。
そうした強みを重ねもつ、在来の動物では太刀打ちしにくい“規格外”の競争相手だという意味です。
捕食者のコヨーテを上回るほどシカを追い立てたことこそ、その規格外ぶりの表れだというのです。
人間が捕食者の中の別格なら、ブタは競争相手の中の別格というわけです。
この見方に立つと、外来種の被害の測り方も変わってきます。
ブタの害というと、畑を荒らしたり、餌を食べ尽くしたりする姿が思い浮かびます。
今回の実験で流したのは声だけで、ブタ本人はその場にいません。
ブタは餌を一口も食べないまま、鳴き声だけでシカを餌場から追い払い、その後30分の客足まで減らしていたのです。
つまり、外来種の害は、食べられた餌の量だけでは測れないということです。
被害を「食べられた量」だけで帳簿につけていたら、鳴き声で追い払われた分は、まるごと記入漏れになってしまいます。
ただし、シカがブタの何を避けたのかまでは、直接確かめられていません。
餌場の取り合いやけがを避けたという説明は、いまのところ研究チームの見立てです。
また、この森にはコヨーテより大きな捕食者がもういないため、大型の捕食者が残る土地でもブタが捕食者を上回れるのかは、これからの課題です。
それでも、この森の餌場で、シカを襲う現役の捕食者の声より、餌を取り合うライバルの声のほうがシカを逃げ出させやすかったことは、映像がはっきり示しています。
研究チームは今後の課題として、ブタの声と人間の声を比べる「スーパー捕食者」と「スーパー競争相手」の力比べも挙げています。
少なくとも餌場の「怖いもの番付」では、殺し屋より食卓荒らしが上に来ることもあるようです。
元論文
Fear of the super competitor? Deer respond more strongly to pigs than coyotes
https://doi.org/10.1038/s41598-026-74290-0
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。
大学で研究生活を送ること10年と少し。
小説家としての活動履歴あり。
専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。
日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。
夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部