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社会全体が長期的なインフレになると「今の100円」と「10年後の100円」を比べたとき、「今の100円」のほうが価値が高くなります。
「今の100円」では缶コーヒーを1本買えても、インフレのせいで「10年後は100円」で缶コーヒーを買えないからです。
この問題を回避するためには、今手にした現金を金や証券などお金以外のものに変え、10年後に再びお金に換金するなど投資を行うのが有効です。
インフレ経済では、貨幣の価値が下がって物価が上がっていくので、金や証券の価格も10年後に換金した場合、高確率で現在よりも高くなっているからです。
そのため一般にインフレ環境では「投資を行うとお金の額面が増えていく」という現象が起きやすくなります。
つまり小作農から回収する更新手数料が少額でも、金や証券に変換しておけば、10年後には増えて帰ってくる可能性が高いのです。
そこで当時の教会も、今現在可能な限り多くの現金を徴収し、お金の価値が高いうちに金や証券に変えて財産を保護しようと考えました。
しかし先に述べたように、教会の権威が揺らいでいる時期に無理のある更新手数料の徴収をしても、小作農から反発されるのは目に見えています。
そこで一部の先進的な教会は、インフレ現象そのものの仕組みに活路を見いだしました。
教会は小作農たちの反応やインフレ率の推移を予測し「農地の1年分の純価値を更新手数料として払えば7年間の土地使用を認める」あるいは「農地の7.75年分の純価値を更新手数料として支払えば21年間、土地使用を認める」といったまとめ払いの割引を確立したのです。
(※ここで言う純価値は農作物を売却して得た金額から1年間の土地の賃貸料を引いた値段を意味します。)
この方式は一見すると小作農にとってはお得でしたが、実はお金の価値が最も高い「今」のうちに多く徴収できるので教会側にとっても美味しい方法でした。
ですがこの目論見を正確に実現させるには計算という「壁」がありました。
ある教会にとって最適な値段設定でも、別の地域にある教会では異なる可能性があります。
現代の先進国では、かけ算や割り算を使った割引計算は義務教育で教えられますが、1600年代では多くの人々にとって計算は容易なことではありませんでした。
中世から知識の蓄積場所として機能してきた教会も、インフレ率を考慮にした割引計算をできる人材は多くはありません。
もし中世にタイムトラベルした人が簿記計算の資格を持っていたなら、きっと大聖堂クラスの会計士にもなれるでしょう。
教会の財政難を救うには誰でも簡単に使える「カンニングペーパー」が必要でした。
そこで1619~1624年に「簡潔で簡単かつ必須の表(Briefe, Easie, and Necessary Tables)」と呼ばれる本が出版されました。
この本にはさまざまな金額に対応した計算結果を記した表が記されていました。
つまりこの時代の人は直接計算せず、対応表で計算結果を導いていたのです。
その後、アンブローズ・アクロイドが記した『リースと利息の表(Tables of Leasses and Interest)』(1628年から1629年)が出版され、これが決定版となります。
この本に記載された表を使えば、現在の100円が未来にどうなるかを知ることができます。
こうした方法を使って、当時の教会の会計士は自分たちが損をせず、小作農が納得する土地更新料のラインを探っていったのです。
そして「農地の1年分の純価値を更新手数料として払えば7年間の土地使用を認める」あるいは「農地の7.75年分の純価値を更新手数料として支払えば21年の土地使用を認める」という割引価格が決定されました。
その後、計算結果が記載された本は教会だけでなく、イギリス内のあらゆる勢力でも用いられるようになっていきました。
このようなインフレ率を考慮した計算は現在でも行っている「割引計算」の初期の姿だと考えられています。
インフレ率を考慮する計算について記載された文献は少なくとも1200年代から知られていましたが、知識のない人が利用できるように大規模に印刷されたのは「簡潔で簡単かつ必須の表(Briefe, Easie, and Necessary Tables)」からであると言えるでしょう。
通常、お金の計算に使う便利ツールは金融分野で重宝されますが、1600年代のイギリスではインフレに苦しむ教会勢力が真っ先に割引計算を導入したという点で珍しくあります。
ですが研究者たちは「簡潔で簡単かつ必須の表(Briefe, Easie, and Necessary Tables)」やアンブローズの『リースと利息の表(Tables of Leasses and Interest)』の真の効果は、便利ツールを超えて社会全体の経済を変革した可能性があると述べています。
計算に従って合理的に契約を遂行することは、後に資本主義が形成させる基礎を築いたと考えられます。
本に記された計算結果の羅列が権力者の横暴を抑えながら資本主義の形成を助け、人間社会を大きく変えていくキッカケになったのは非常に面白い事実と言えるでしょう。
参考文献
The unexpected origins of a modern finance tool
https://news.mit.edu/2024/unexpected-origins-modern-finance-tool-discounting-0606
元論文
Mr. Aecroid’s Tables: Economic Calculations and Social Customs in the Early Modern Countryside
https://doi.org/10.1086/728594
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。