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戦乱の時代になると人口が減少することは古今東西を問わずよく見られる現象ですが、三国時代のそれは他のものと比べても常軌を逸していました。
後漢の188年の中国の推定人口が6000万人なのに対し、三国時代の221年には1400万人まで激減しているのです。
そんな昔の人口がなぜ分かるのか? と思う人もいるかも知れませんが、中国では地理や官制、軍の編制など多岐に渉る記録が残されており、この記録の中には、各郡県や州の戸数などを記録したものもあるため、これにもとづいて当時の人口を推定することができるのです。
しかしこれは33年間で人口が四分の一になったということであり、非常に驚くべき数値といえます。
その原因として挙げられるのは、相次ぐ戦乱です。
群雄たちが合戦に臨むためには領民たちを募兵して戦力に加えなければならず、それゆえ合戦は農業が行われていない秋から冬にかけての時期に行われるのが普通でした。
しかし相次ぐ戦乱によって農民が農業を行っている春から夏の時期に兵士を動員することもしばしば起こるようになり、穀物の収穫量が大幅に減ることが相次いだのです。
また農地が戦場になった場合は穀物を収穫することができず、ただでさえ少ない収穫量をさらに減らすことになったのです。
さらに三国時代に相次いで起こった天災も人口減の理由となっています。
歴史書を見ると、後漢末の194年には長安周辺(現在の西安)で飢饉が発生し、死人の肉を食べて飢えをしのぐものが発生したという記述があります。
また、197年には天候不順による干ばつやイナゴの発生、213年には大洪水や疫病が続発しました。
これらの災害によって、毎年のように天災による死者が続出したのです。
三国時代は戦乱の時代ということもあり、戦乱による死者が多い印象がありますが、飢饉や災害による犠牲者も多く、特に幼児や高齢者がその影響を受けやすかったことがうかがえます。
戦乱や飢饉による犠牲者が多く、特に幼児の死亡率が高かったことは、人口構成に大きな影響を与えました。
仮に戦争によって人口が減った場合、その人口の回復は比較的早く進むことでしょう。
なぜなら戦闘による死者は基本的には徴兵された成人男性であり、当時は今ほど厳格に一夫一妻制が敷かれていたわけではないので、女性の人口が減らない限り生き残った男性が複数の妻を持つことによって子どもを増やし続けることはできます。
しかし、自然災害による犠牲者は幼児や老人が中心であり、その回復は非常に遅くなりました。
というのも幼児が多く命を落とした場合、同世代内の人口の母数自体が少なくなります。
よってその幼児たちが成人して子どもを産んだとしても、自然災害前の人口まで回復させることは難しいのです。
このようなこともあって、三国時代に減少した中国の人口は、唐の時代になるまで元の人口に回復することはありませんでした。
このような人口激減に対して、「戦乱による流民が増えたことにより、戸籍で把握することのできない人が増えただけなのではないか」という反論もあります。
実際に三国時代は多くの流民が発生しており、戸籍上の人口と実際の人口でズレが生じていたということも多々ありました。
また天才軍師として知られている諸葛亮(しょかつりょう)は兵力不足に対して「領国内にいる流民に戸籍を与えた上で徴兵して、戦力を増強すればどうだろうか」と劉備に提案したしたことさえあり、当時から群雄たちが流民による人口のズレに悩まされていたことが分かります。
しかし中華全土で合戦が相次いでいた221年時点の人口が1400万人だったのに対し、三国鼎立の体制で魏・呉・蜀それぞれが比較的安定していった242年で1600万人、263年で1900万人、そして司馬炎(しばえん)が中華統一を成し遂げた280年には2100万人となっています。
こうした政治的に安定した時代の人口推移を見ると、三国時代に人口が激減し、その後なかなか回復しなかった状況が伺えます。
流民は戦乱が落ち着いてどこかに定住したら統治者によって戸籍に組み入れられることを考えると、流民による戸籍からの把握漏れは決して少なくはないものの、激減した人口(4人に3人)のほとんどが流民として中華全土を彷徨っていたわけではないことが窺えます。
余談ですが、三国志演義(中国の明の時代に書かれた長編小説、歴史書の「三国志」とは別物)では大量の兵士を動員して行われている合戦がしばしば描かれています。
具体的には曹操がライバルの袁紹(えんしょう)を破った官渡の戦いでは曹操が10万 、袁紹が70万の兵を率いたとされており、孫権と劉備が曹操を破った赤壁の戦いでは孫権と劉備が3万、曹操が100万の兵を率いたとされています。
しかし動員した兵たちの食糧や武器は必要であり、これらを用意することができなければ軍隊として動員することはできません。
先述したように中華全土で相次ぐ戦乱と飢饉によって人口が激減していたことを鑑みると、一地方の勢力に過ぎない群雄が70万や100万の兵を動員して合戦に赴くのはまず不可能といっていいでしょう。
実際に正史では官渡の戦いは曹操1万VS袁紹10万、赤壁の戦いは孫権・劉備3万VS曹操20万と書かれており、こちらはまだ現実的な数値と言えます。
三国時代は戦乱が続くだけでなく飢饉も相次いでいたということもあり、庶民たちにとっては非常に暮しにくかった時代です。
三国時代には群雄たちが大活躍している華やかな側面が目立ちますが、中華全土の人口という数字の記録に目を向けると、このような負の側面も多くあったことがわかります。
参考文献
東洋大学学術情報リポジトリ (nii.ac.jp)
https://toyo.repo.nii.ac.jp/records/10119
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。