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川は風呂のように熱く、道に死体の山…和歌山大空襲「地獄」の記憶


 第二次世界大戦末期の1945(昭和20)年7月9日夜から10日未明にかけ、米軍の爆撃機B29が投下した約800トンの焼夷(しょうい)弾によって、1100人以上が犠牲になった「和歌山大空襲」。2万7000戸以上が全焼、負傷者も4000人を超えた。空襲から78年。ロシアのウクライナ侵攻など国際情勢が不透明な今、空襲を体験した2人に話を聞いた。【大塚愛恵】

 和歌山城天守閣など、街のシンボルも焼け落ちた和歌山市中心部の十三番丁に住んでいた伊藤喜三郎さん(87)=当時9歳=はその夜、母と弟が疎開先を探すため家を出ていて、父と2人だった。空襲に気づいた父から先に逃げるよう促され、紀の川にかかる北島橋を目指した。爆弾の落ちるごう音が鳴り響く。「学校で習ったように目と耳を手で押さえ、無我夢中で逃げた」。

 市堀川の城北橋を渡ったところで父と合流し、腰をかがめて首まで川の中につかった。火の粉で被っていた敷物に穴が開くと川の水をかけた。川の温度が上がり、「風呂に入っているようだった」という。川で一夜を明かすと、平屋が建ち並んでいた周辺は焼け野原に変わり、川には数体の死体が流れていた。

 川から上がり、配給があると聞いた和歌山城を目指す途中、黒焦げになった人や、100人ほどが積み重なった死体の山を目にした。赤ちゃんを背負った母親の死体もあった。「えらいことになった」。ぼうぜんとしていたことを覚えている。

 伊藤さんは「当時よりも武器や爆弾の威力も格段に上がり、被害は比べものにならない。戦争を繰り返してはいけない」と訴える。

 紀の川付近の同市粟に住む土橋重治さん(84)は、当時6歳だった。9日夜は寝ているところを「重治、起き」と母にたたき起こされた。家族8人で庭の防空壕(ごう)に避難した後、約30メートル先の雑木林に駆け込んだ。「キーン」「ヒューン」。爆弾が空気を切る音が聞こえる。「わずかな距離だったが、80年間生きてきた中で一番距離が長く感じた」と振り返る。家は焼け、紀の川対岸の南の空は赤く包まれているように見えた。「初めて見る光景をただ眺めていた。地獄だった」。

 空襲後は親戚のもとに身を寄せた。4キロほど離れた自宅まで裸足で歩いて往復していると、叔父が草履を作ってくれた。履くと柔らかな感触が伝わり、うれしさに涙が出た。

 その後、教師になったが、当時の記憶が原点にある。「困っている子どもの立場に立ち、思いやることのできる教師でありたい」。その思いで教育現場に約40年間携わった。小学5、6年生に自らの体験も語ってきた。「戦争は遠い昔の話のように感じられるかもしれないが、身近にあると危機感を持つべきだ」と語気を強めた。

パネルや資料展示 和歌山市立博物館

 和歌山市立博物館では、土橋さんを含め23人の大空襲の体験談を8月20日までパネル展示している。防空ずきんや焼夷弾などの関連資料も展示される。

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