starthome-logo 無料ゲーム
starthome-logo

「らんまん」牧野富太郎の苦境救う 京都帝大生が残した植物研究の芽


 神戸市兵庫区の会下山(えげやま)小公園には「日本の植物学の父」といわれる牧野富太郎(1862~1957年)の研究所がかつてあった。モデルにしたNHK連続テレビ小説「らんまん」の放映に合わせ、この春、跡地の花壇や案内板がリニューアルされた。牧野を敬愛する県立人と自然の博物館(三田市)の研究員、鈴木武さん(60)と足跡を訪ねた。

 市街地を見下ろす小高い公園の一角。太平洋戦争直前の1941年まで牧野が所長を務めた「池長植物研究所」があった。跡地はパーゴラ(植物用の棚)や花壇になり、牧野の業績を伝える案内板も設置されている。

 「つかみどころのない人。同じ土佐出身の坂本龍馬のような人たらしだったと思っています」。牧野とはどんな人物だったのか、との問いに鈴木さんはこう答えた。高校時代に牧野の植物図鑑に親しみ、同じ植物分類学の道に進んだ。

 高知から東京に出て植物研究に没頭していた牧野は、高価な資料の収集などに私財を投じ、巨額の借金をつくっていた。1916年12月、大阪朝日新聞に「世界的植物学者が借金苦で貴重な標本10万点を海外に売らざるを得なくなっている」との記事が載る。すぐに支援を申し出たのが神戸市の資産家、池長孟(はじめ)(1891~1955年)。当時20代で京都帝大の学生だった。

 池長は標本を現在の価値にして約1億円で買い取り、公園内に所有していた元小学校講堂の建物を牧野のための研究施設として提供した。18年に開所。牧野は月1回来て、標本を整理し、将来は一般公開するとの約束で始動した。ところが池長の思い通りにいかなかった。

 牧野は凝り性で1点の整理に膨大な時間をかけたうえ、来客には気軽に会い、植物談義を始めると止まらなくなった。研究所にじっとしておらず、六甲山や氷ノ山など、県内各地を歩いて植物を採取した。所内には約30万点の標本があったとされるが、整理は一向に進まず、見かねた池長が京大に標本を寄贈しようとして、関係が悪化したこともあった。

 池長は約30歳年長の牧野について「義理堅い面もあるが不義理。わがままかと思えば従順。自分のような小人が理解できない不可解の人格を有する」と評している。研究所は25年間運営されたが、標本は陳列されることなく、閉館時に東京の牧野の元に戻された。それでも、鈴木さんは「神戸に縁ができたおかげで、牧野は県内各地の植物愛好者と交流し、兵庫の植物学の芽を育てた」と言う。

 私たちが訪れた時、花壇で地元の自治会長の吉岡伊勇(よしたけ)さん(80)がホースで水やりをしていた。牧野の故郷に妻の名前をとって命名したスエコザサの苗を13年前にもらいに行って公園に植えた。今は背丈を超えるまでに育っている。花壇の植物は一時枯れていたが、4月初旬に神戸市がノジギクやヤブウツギなど牧野が名づけた草花を植えた。「ドラマの影響か、最近はたくさん人が来るようになった。枯らすわけにはいきませんから」と世話を続けている。

 牧野を支援した池長はのちに南蛮美術のコレクターとなり、大阪府茨木市の隠れキリシタンの集落から、教科書にも掲載されるあのフランシスコ・ザビエルの肖像画を見つけ出した。鈴木さんは「企業人のメセナ(文化芸術支援)の先駆者。牧野の自由奔放さに翻弄(ほんろう)されながらも、支援を続けたのは、彼の世界的な業績を守りたいという使命感があったからでしょう」と話す。

 戦後、池長が神戸市に寄贈したコレクションは市立博物館の中核になっている。苦境にあった牧野を救った池長。彼の人生を描いたドラマがあってもいいと思った。【山本真也】

会下山小公園

 神戸電鉄湊川駅から西へ徒歩11分。兵庫区役所では池長植物研究所に関するパネル展示を7月30日まで開催している。セットで巡ると牧野富太郎と池長孟の関係がよく分かる。

    Loading...
    アクセスランキング
    starthome_osusumegame_banner
    Starthome

    StartHomeカテゴリー

    Copyright 2024
    ©KINGSOFT JAPAN INC. ALL RIGHTS RESERVED.