私は、大好きな漫画だとか音楽だとか昼寝もできるソファだとかが身近に完備されている自宅だとすぐソッチに逃げてしまう意志の弱い人間なので、もう20年以上も前から原稿は“外”でしか書かないスタイルを貫きとおしてきた、いわゆる「ノマド」の先駆者的なライターであり、しかもスモーカーゆえ、そんな私を受け入れてくださるハコは、必然として“昔からある怪しげな喫茶店”に限定される。また、このたぐいの喫茶店には、やはりおのずと“怪しい勧誘系ビジネス”に執心する輩と、その輩にそそのかされる若者たちが集い、ドヤ顔のアンチャンやネエチャンが滔々と語るチンケな哲学を、一言一句聞き逃すまいと目をキラキラ輝かせながら耳をそばだてている大学生……といった光景に、よく出くわしたりする。

 

そして、彼ら彼女らの口から頻繁に飛び交うワードの一つに「人脈」ってやつがある。

 

勧誘側:キミは将来成功するにあたって、なにが一番大事だと思っている?

 

勧誘されている側:「人脈」……ですか?

 

勧誘側:そのとおり! いろんなところに顔を出して「人脈」をいっぱいつくることが、いつの時代でも自分のビジネスを助けてくれるんだよ。

 

勧誘されている側:ですよね。ボクも大学生のうちに動けるだけ動いて「人脈」をつくっていこうかと……。

 

……みたいな感じである。なんとも嫌な響きを含む会話ではないか。

 

デジタル大辞泉によると、「人脈」とは

 

「ある集団・組織の中などで、主義・主張や利害などによる、人と人とのつながり」

 

……とある。つまり、穿った解釈をすれば「人のことを損得勘定でしか見なしていない」わけである。こうも下品なワードを安易に使ってしまう人種に、はたして人は寄ってくるのだろうか? 意地汚く鉱脈を発掘しに行った場でいたずらにもらった名刺の枚数や、SNS上のフォロワー数を増やしたところで、その人たちはいざというときに無償で救いの手を差しのべてくれるのだろうか? 損得勘定で近づいてきた人間に対しては、同様に損得勘定しか働かないのが当たり前なのではないか? デキる男であればあるほど、そこらへんのシビアさはよりいっそう研ぎ澄まされているものだ。

 

人とのつながりを広げていきたいのなら、たとえば草野球チームに所属すればいい。これが一番手っ取り早い。所属すれば、最低でも8人、サッカーだと10人、ラグビーだと14人の仲間ができる。だが、この「仲間」が「人脈」になるのは、まだまだ先の話である。損得勘定を抜きにして、何年間も共に汗を流し続けてきたうえで、はじめて「明日の撮影のカメラマンさん、どうしよう? あ、そういえばウチのチームにカメラマンさんがいたよな…」と、「野球のついでに仕事も一緒にできる関係」に到る可能性も、わずかながら生じてくる。まずは「人脈」在りきの発想では絶対に築くことができない関係だと言えよう。

 

「人脈」という言葉を好む人間を信用しちゃあダメですよ──いつも喫茶店で私はこうお節介なアドバイスをついつい挟みたくなるのだけれど、まあ一度痛い目にあって、身をもって学習するのも悪くない……のかもしれない? 

情報提供元:citrus
記事名:「「人脈」という言葉を頻繁に使う人間を信用してはいけないワケ