はじめに
富岡製糸場といえば、世界遺産に登録され、人気の観光スポットとなっています。ですが、現在の富岡製糸場の姿があるのは、ある会社のおかげだということをご存じですか?
今回は、富岡製糸場を守ってきた企業である「片倉工業株式会社」とその歴史についてご紹介します。
まずは、富岡製糸場ついて、簡単におさらい
画像提供 富岡市
富岡製糸場は、2014年6月21日に「富岡製糸場と絹産業遺産群」の1つとして世界遺産に登録されました。世界遺産の他に、史跡や国宝にも認定されています。
1868(明治元)年直後の日本では、清の太平天国の乱による混乱と、ヨーロッパでの蚕の病気の大流行によって生糸の輸出が急速に拡大しました。それに合わせて生糸の輸出を増大した結果、日本が輸出する生糸は、いい加減な作りの品質の低い生糸が輸出されるようになり、国際的な評価が低落してしまいます。
そういった時代背景の中、生糸の世界的な需要から、国は現在の「富岡製糸場」となる工場を建設し、1872(明治5)年11月4日より官営模範工場の1つとして創業を開始しました。
官営から、民営化へ
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操業当初こそ、工女は「西洋人に生き血を飲まれる」という噂話があったことから女工不足となっていましたが、年々人手が増加。製糸上の中心である繰糸器は、当時のフランスやイタリアでさえも150釜ほどしかありませんでしたが、富岡製糸場は300釜と世界最大級の製糸工場となりました。
1875(明治8)年からは三井物産を通じて、日本人の手による直輸出が始まります。民営化への計画もそれと同時期にはじまりますが、1877(明治10)年の西南戦争で一回断念されました。
そして1890年代になって、ようやく民営化が実現することになります。1891(明治24)年6月に払い下げが行われましたが、いずれも予定の価額に届かずに不成立となっています。
ちなみに、この時に応札したうちの1人に、片倉工業株式会社の創設者である片倉健太郎氏がいます。この時から、富岡製糸場と片倉工業の縁は続いていたのかもしれませんね。
その後改めて1893年に入札が行われ、三井家に払い下げがなされました。
富岡製糸場と片倉工業株式会社が歩いてきた時代
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富岡製糸場と片倉工業株式会社が本格的に一緒に歩み始めるのは、1939(昭和14)年になってからのことでした。当時、日本最大の繊維企業である片倉製糸紡績株式会社に合併された富岡製糸場は「片倉富岡製糸場」と名前が改称されます。
1940(昭和15)年には過去最高の生糸の生産記録を打ち出しますが、時代は太平洋戦争に突入していき、1941(昭和16)年3月に公布された統制経済に片倉富岡製糸場も組み込まれ、形式上、片倉工業から日本蚕糸統制株式会社に賃貸されることとなります。
太平洋戦争中は数多くの製糸工場は用途転換や廃止が多くなる中、軍需用の落下傘向けの製糸を生産するために操業が続けられ、結果空襲などの被害を受けることなく、明治当時の姿を残したまま終戦を迎えることとなりました。
そして、終戦を迎え1946(昭和21)年3月に片倉工業株式会社に片倉富岡製糸場が戻り、「片倉工業株式会社富岡工場」として創業を開始します。
戦後まもなくから最新の機械を導入し、1974(昭和49)年には生産効率を上げて富岡製糸場最高の生産高をあげました。
片倉工業株式会社が守り続けてきた「富岡製糸場」
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製糸所として稼働してきた片倉工業株式会社富岡工場は、和服を着る機会の減少と海外からの廉価な生糸の輸入によって1987(昭和62)年2月26日に操業を停止し、実に155年続いた歴史に幕を閉じます。
しかし、片倉工業株式会社の富岡製糸場の歴史は続きます。
閉業したその後、片倉工業株式会社は片倉工業株式会社富岡工場を「売らない・貸さない・壊さない」という信条のもと、年間最高金額1億円もの維持費を投入してその姿を維持してきました。
これは修復工事を当時の工法で復元するということにこだわったからであり、そのおかげで、富岡製糸場は良質な保存状態が保たれてきたのです。
片倉工業株式会社が守り続けてきた富岡製糸場は、2003年にユネスコの世界遺産に登録する計画が上がったことから、2005年9月30日に富岡市に寄贈。無事に世界遺産登録を果たすこととなったのです。
おわりに
富岡製糸場は、世界遺産に登録されてから観光地としても人気が高くなっています。
明治の富国強兵時代の姿を現在も伝えてくれる姿を維持してきた片倉工業株式会社の活躍を感じながら、改めて富岡製糸場を観てみると、違った感動を覚えることができるはずです。