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悲劇の将軍、源実朝が歌に込めた思いとは?意外と知らない百人一首の世界を探求〈14〉


季節は秋から早くも初冬へとめまぐるしく移ってゆきます。今回は今話題の「鎌倉殿の13人」にちなんで、鎌倉三代将軍の源実朝に焦点を当ててみます。実朝は、藤原定家にとって現将軍であると同時に、遠隔の地にいる若き才能ある弟子でした。悲劇の将軍・実朝が「百人一首」でどのように遇されているかは興味深いことです。

秋の鎌倉

秋の鎌倉


源実朝の輪郭

まずは源実朝について簡単にご紹介しましょう。実朝は父・頼朝が征夷大将軍になった建久三(1192)年、母・北条政子の子として生まれました。8歳で父を喪い、兄・頼家が二代将軍になるものの、数年にして職を剥奪され、修善寺で惨殺されてしまいます。この時、実朝は12歳で三代将軍となります。元久元(1204)年に13歳で京から摂関家の裔、坊門信清の娘を妻に迎えたこともあって、京の貴族文化への憧れが強く、14歳で詠んだ12首が最初に詠んだ和歌として伝わっています。そして、この年には定家の弟子の一人・内藤知親という人物から、撰進されて間もない「新古今和歌集」を献じられています。それは父・頼朝の和歌2首の入集を知って懇請したことに依るものでした。
実朝は成長とともに政務に励むものの、実際の政治上の判断や実行は。北条氏他の御家人達が務めていました。そんな中、祖父・北条時政の後妻・牧の方が、実朝から将軍職を奪い娘婿の平賀朝雅を据えようという陰謀が発覚し、時政と共に排除されます。頼朝の幕府創設以来続く、陰謀とそれに関わった一族への過酷な処断の歴史はなおも続いていました。実朝にとって決定的な出来事としては、和田氏一族が幕府への憤懣を爆発させて滅亡したことがあります。この時の戦いは激烈で実朝自身も攻められ死線を彷徨うほどでしたが、結果的には幕府側が勝利し、和田氏は全滅し凄惨な結末を迎えます。しかし、その後も人々を不安に陥らせる星の異変や雷、不吉な虹、あるいは海水の変色、度重なる地震という様々な天変地異などの凶事が続き、そうしたことの多くが将軍としての実朝の心に深く影響し、濃く暗い影を作ったと思われます。

その影からの脱出を図る手段だったのかもしれないことが2つあります。その一つは実現しなかった渡宗計画です。宗人の陳和卿に刺激されて、26歳の時に船を完成させて由比ヶ浜で進水を試みますが、失敗し挫折で終わります。もう一つが官位昇進へのこだわりで、源氏が子供のない自分で絶えることを覚悟したことが発端らしいのですが、27歳の建保六(1218)年の1年のうちに、権大納言・左近衛大将・内大臣を瞬く間に経て、歳末には正二位で右大臣の任官を果たします。しかし、翌年28歳の正月、右大臣拝賀のために詣でた鶴岡八幡宮社頭で、八幡宮別当だった兄・頼家の遺児・公暁によって暗殺され、その波乱に満ちた短い生涯を終えます。

鶴岡八幡宮の銀杏

鶴岡八幡宮の銀杏


実朝と和歌学び、定家とのつながり

和歌については、父・頼朝がすでに関心高く、西行が鎌倉を訪れた折に歌道の教えを請うています。しかし、西行は和歌には触れず、弓馬について一夜語ったとされます。頼朝は他にも梶原景時等と和歌や連歌を楽しんだことが伝えられていて、彼の「富士の煙」と「陸奥の‥‥つぼの石ぶみ」を詠んだ2首が「新古今集」の羈旅に入集し、それを実朝は早く見たいと求めたのでした。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に記述がある実朝の和歌会は、15歳の元久三(1206)年から27歳までで10回ほどですが、17歳で「古今集」の献上を受け、翌年には和歌の神を祀る住吉社に20首を奉納し、同じ年に定家に30首を送って添削を受けています。それと同時に実朝からの和歌実作への問いに答えるものとして、

〈詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿を願い‥‥〉

という定家の最も有名な文言を含む代表的歌論書の一つ、「近代秀歌」が献呈されています。
実朝は、幕府の重鎮・大江広元から三代集(古今・後撰・拾遺の各集)の献上も受けており、たまたま鎌倉に来た鴨長明と談論することもありましたが、定家との関係は格別だったようです。定家の日記「明月記」には、京にいた有賀朝雅の惨殺のことや、鎌倉での和田合戦で将軍・実朝が逃げ惑ったことまで詳しく書かれていますが、格別に実朝を評価するという記述は見えません。あるのは、

〈‥‥関東の消息、五代集営み送るべき由なり。予、古今を書くかと云々、老眼堪えず、‥‥遁れ避くべからざる由、領状し了んぬ―建保元年(1213/10/13)〉
〈‥‥将軍、和歌の文書を求めらるるの由を聞く。仍て相伝する所の秘蔵の万葉集送り奉る由書状を書き‥‥広元朝臣消息の次で、下官(定家)愁訴する有るか。委しく承るべき由示し送るの由、先度対面の時中将(雅経)之を語る。‥‥―同年(11/8)〉

などです。前者は実朝からの「五代集(万葉・古今・後撰・拾遺・後拾遺の五集)」の要求に、渋々応ずる内容で、後者は秘蔵の「万葉集」を送ることにした手紙を書いたとしつつ、幕府の大江広元から、引き替えに領地の「愁訴」があるなら応じる旨があったと広元の娘の婿でもあった雅経が語ったと記しています。ここで雅経の名が出ていますが、実朝の鎌倉と京とのやりとりについては、「新古今集」を献上した内藤知親以外に、「新古今集」撰者でもあり蹴鞠を伝える家柄でもあった、飛鳥井雅経の仲介が大きかったともされます。
さて、定家側の一方的な献身ではなく、幕府側からの配慮もあって、それが一層両者を近づけたとも思われます。この建保元年12月、実朝22歳の時に600首余りの「金槐和歌集」が完成し、実朝から定家に贈られます。
定家は実朝をどのように見ていたのか、京から遠く文化的には辺境にいながら若くして類い希な才能ある若き歌人として注目したのか、今や朝廷を凌駕する力ある幕府の頂点たる将軍であれば、可能な限り要望に応えることが処世上で得策と考えたのか、どちらも誤りではないように思えますが、いかがでしょう。

実朝の死から16年後の嘉禎元(1235)年3月に定家の単独撰による第9勅撰集「新勅撰集」が完成します。実朝の歌は25首の入集で、最も多く入集した家隆の43首から6番目の歌数ですから、かなり優秀です。しかし、これを家隆は新古今撰者代表、九条家(2位・良経の36首)、歴代有力歌人(3位・俊成の35首)‥‥といったグループの代表と見て、実朝は鎌倉幕府を代表させたに過ぎないとも言えそうです。しかし、確かに将軍ではあっても生前ならともかく、暗殺された人物である実朝を幕府代表とすることはないようにも思います。そう考えると、実朝はやはり個人の力として、その才能が定家には認められていたのだろうと思います。そうした評価は生前に「近代秀歌」を贈った時点で決まっていたのかもしれません。

寿福寺 山門から続く参道

寿福寺 山門から続く参道


実朝の「百人一首」の歌

〈世の中は常にもがもな 渚漕ぐ海士の小舟の綱手かなしも〉

世の中は常に変わらず続いてほしいことだよ。渚で漕ぐ漁師の小舟に付けた綱の先までいとしいよ、という内容です。出典は「新勅撰集」羈旅で、「題しらず」として入っています。元は「金槐和歌集」にあって、「舟」という題詠です。「古今集」の東歌にある、

〈陸奥(みちのく)はいづくはあれど塩釜の 浦こぐ舟の綱手かなしも〉

の本歌取りで、上句の名所紹介を、万葉語の「常にもがもな」を用いて世の中への思いに換えました。下句はほぼ重なりますが、「浦」を「渚」にし、「小舟」の主「海士」を加えて写実化しました。「かなしも」も、実朝好みの万葉語です。悲嘆ではなく愛憐、いとしむ情です。大海原でなく、渚辺りを海士が小舟を漕いで漁をして生活している。日々の生活を慎ましく営む庶民への愛燐の情を詠み、その永続を祈っている歌です。羈旅の歌ですから、旅人の視点で都から離れた海浜の情景を描き思いを述べていることになります。頼朝の「新古今集」入集歌が羈旅でしたが、それに合わせて位置させた1首のようにも見えます。
この歌の要素は、有名ないくつかの実朝歌で繰り返されているものです。まず、海を詠むという点では、

〈箱根路をわが越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波の寄る見ゆ〉

〈大海の磯もとどろに寄する波 破れて砕けて裂けて散るかも〉

という広く静かな、あるいはダイナミックな激しさのある海が描かれています。また、為政者としての庶民への思いを詠むというのなら、

〈時により過ぐれば民の嘆きなり 八大龍王雨やめたまへ〉

が挙げられます。これは大雨の時に詠んだもので、「八大龍王」とは、水神で雨乞いに祈る本尊です。太平な世の永続を祈っているというものとしては、

〈君が世も我が世も尽きじ石川や 瀬見の小川の絶えじと思へば〉

があります。「石川や瀬見の小川」とは、京都の賀茂川で、流れの絶える事がないとした比喩です。この「君が世」とは天皇が治める「世」だから、天皇を尊崇することにもつながっています。

〈山は裂け海は褪(あ)せなむ世なりとも 君にふた心わがあらめやも〉

これらはどれも世に知られた実朝らしい名歌と言って良い歌ばかりです。中でも、最後の歌は、「新勅撰集」雑二の巻末歌で、詞書は「ひとり思ひを述べ侍りけるうた」とある述懐の歌ですが、「金槐和歌集」の定家に贈られた本とされる系統の定家所伝本では、後鳥羽院から御書を送られた時のものとあり、歌集全体の最末尾に置かれています。後鳥羽院は実朝の名付け親でもあり、「君」は後鳥羽院で、院への忠誠を誓った歌だったとわかります。「新勅撰集」では後鳥羽院・順徳院他の承久の乱に関わる人物の和歌は、定家の意に反して取り除かれて成立しましたが、実朝のこの歌の内容、また雑二の巻末という位置まで見れば、入集についての定家の強い意思も推測されます。それは、「新勅撰集」に入集した実朝歌全体での代表と言っても良いとすら意識されていたのではないかとも思われます。しかし、この歌も「百人一首」には選ばれませんでした。では、なぜ多くの名歌がある中で、「世の中は常にもがもな‥‥」が特に選ばれたのでしょう。

実は、「世の中は常にもがもな‥‥」は、単に為政者の立場から人々の生業の永続を願っただけではないと思います。「金槐和歌集」の定家所伝本での、この歌の直前の歌を見てみましょう。

・雑歌
〈いづくにて世をば尽くさむ菅原や 伏見の里も荒れぬといふものを…(1)〉
〈嘆き侘び世を背くべき方しらず 吉野の奥も住み憂しと言へり…(2)〉
〈世に経れば憂きことの葉の数ごとに 絶えず涙の露ぞ置きける…(3)〉

・芦
〈なにはがた憂き節しげき芦の葉に 置きたる露のあはれ世の中…(4)〉

・舟
〈世中は常にもがもな渚漕ぐ 海士の小舟の綱手悲しも〉

「世の中は常にもがもな‥‥」に至る4首では、どれも「世」を詠んでいます。(1)「私はどこで生涯を終えれば良いのだろう。身を臥す伏見の里も荒れていると言うが」、(2)「嘆き悲しんで、どこで世を捨てたら良いかわからない。身を隠す場と古来から知られる吉野も住みづらいというが」、(3)「この世を過ごしていると辛いという言葉ごとに、常に涙の露が置いたよ」、(4)「難波潟で節の多い芦の葉に露が置くように、辛いことばかりの世の中だよ」。つまり、「世」とは生きて住み続けるのは辛く悲しみばかりで、避けたいが避け難い場だという、世を憂う思いが満ちています。これらに「世の中は常にもがもな‥‥」は連続しています。
「金槐和歌集」全体での「世」、あるいは「世の中」を詠む歌を見ると二通りに分けられるようです。ひとつは、

〈行く末も限りは知らず住吉の 松にいく世の年か経ぬらむ〉

のように、長寿を象徴する「(住吉の)松」などと結びついて永続への祝意を表す場合です。そして、もう一つが、

〈事しげき世を逃れにし山里に いかに尋ねて秋の来つらん〉

のように、上に挙げた4首と共通する、人にとって辛い現実を表す場合です。後者には過酷な「世」への実朝の頼りない思いが反映され、他の歌作りとは異なる実朝の素の姿そのものが見いだされるようです。そうした上で、世の中が平安に継続することを夢想して願ったのが、「世の中は常にもがもな‥‥」で、「海士の小舟」以下は「世」の辛さの表象なのでしょう。そういう意味で、まことに哀切な歌と言えます。歌の上で、その哀切さの対象は庶民生活ですが、作者の人生を知った上で読む時には、若くして生を断ち切られた作者自身にも向けられるものと思えます。定家と実朝は生涯を通じて消息のやりとりのみの、今で言えばリモートで終始しましたが、「海士の小舟」が実朝自身にも見えてきたのかもしれません。定家にとって、読者の側から実朝の人生の悲劇性を投影させて理解するというところから、「百人一首」の1首に選ばれたのではないかと思えます。そうした実朝の悲しみと祈りを確かに受け止め、理解しようとし、同時に特に選んで顕彰することが実朝への鎮魂になるという配慮があって選ばれたのではないか、と筆者は考えます。


《参照文献》
悲境に生きる 源実朝  志村士郎 著(新典社)
コレクション日本歌人選 源実朝  三木麻子 著(笠間書院)
訓読 明月記  今川文雄著(河出書房)
金槐和歌集 新潮日本古典集成(新潮社)

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