秋は「天高く馬肥ゆる」と表され、澄み渡った空の下で軽やかに身体を動かし自然を満喫できる気候を称えたくなります。存分に楽しんだ後、気づけばいつの間にか太陽は傾き大きく広がる夕焼けの美しさに出会います。日が暮れて暗くなる迄のしばしの時間、光の移ろいは私たちの感情にも大きく働きかけてくるようです。秋の情感は暮れゆく中に見つけられそうです。
「夕焼け小焼け」歌いながら帰りました!
大人になると声に出して歌わなくなりますが、メロディを耳にすると心の中では自然に歌ってしまっている、ということはありませんか。
「夕焼け小焼けで日が暮れて
山のお寺の鐘が鳴る
お手々つないで皆かえろ
からすと一緒にかえりましょ」
夕暮れは子供たちにとっては遊びをやめてお家へ帰る時間。楽しい時をおしまいにするにはこんな歌が必要です。みんなと歌いながら歩いて行けば、「また明日!」と笑顔で約束して帰れそうですね。
なんとなく空を見渡して、もうこんな時間になってしまった、と気づくこともあるでしょう。やはり帰り道を急がなければ、と思うのは大人にとっても変わらないかも知れません。
詩人の堀口大學は「夕ぐれの時はよい時 かぎりなくやさしいひと時」で始まる詩を残しています。季節を定めること無く、夕暮れの神秘や静寂、失った時を懐かしむような安らぎが語られています。
「子供が帰った後からは
円い大きなお月さま
小鳥が夢を見る頃は
空にはきらきら金の星」
「夕焼け小焼け」の詞を書いた中村雨紅は夕方の空だけでなく、その先に広がる星月夜まで歌にしています。晩ごはんをかこむ食卓の団欒や、やすらかな眠りにつく子供たちをまるで見守っているかのようですね。夕暮れはさまざまなことを包みこみ心を穏やかにしてくれる、やさしさの時ともいえるようです。
清少納言の心にしみた夕暮れは?
夕暮れをイチ押しした清少納言にとっては、どのようなものだったのでしょうか。『枕草子』を開いてみると冒頭、春はあけぼの、夏は夜、に続いて、秋の夕暮れの感慨を描写しています。
「秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏のねどころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛びいそぐさへあはれなり」
夕日が山の端に隠れようとしている時、ねぐらへ帰り急ぐ烏たちにしみじみと感動をしています。当時の美意識では感動の対象とはならない「烏」にさえ感動してしまうほど秋の夕暮れの風情は素晴らしい、と清少納言は語っています。なんだか子供たちが歌う「からすと一緒にかえりましょ」という声が聞こえてくるようです。
続けて、列を作って飛んで小さくなっていく雁の姿、すっかり日が落ちてしまってから聞こえてくる風の音や虫の音にも心動かされると綴っています。宮廷という多くの人の思惑がいきかう中で仕えていた清少納言が、夕暮れのひととき自然に目をむけ心を解き放して感じ取ったことばは、時を越えて私たちにも響いていてくるものがあります。
夕暮れの後のお楽しみは…?
夕暮れの美しさはなんといっても静かに変わっていく光。やがて太陽が姿を消してしまえば光は失われ暗い夜の闇があたりをつつみます。そんな時心をあたためてくれるのが、ほんのりと灯るあかり。
「ひとり、燈のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞこよのう慰むわざなる」
と灯火親しむ読書をすすめているのは『徒然草』を著した吉田兼好です。兼好が手にしようとしているのは中国や日本の古典のようですが、どんな本でも未知の世界を自在にみせてくれるエンタテインメントが詰まっていそうです。夜が長くなっていく秋は本を開きたくなる気分になりやすいもの。読もうと積んでいた本、読んでみたいと頭の隅にタイトルを刻んでいた本があればチャンスです。
外で過ごすのが快適な温度となり心地よく過ごせるこの時季は、窓を開けてのお月見もまたいいものです。中秋の名月は過ぎてしまっても、日々形を変えていくお月さまが晴れた夜空に浮かぶ姿をみると、気持ちが穏やかになっていきます。時間が経つと位置がかわっているのに気づき、夜の長さ短さを感じるのもまた一興。お酒好きにとって秋のお月さまは、ちょっとした飲み友だちかもしれません。
〈白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりける〉
酒と旅を愛した歌人若山牧水の歌です。「白玉の歯」とは大仰な形容ですが、秋のちょっとした心細さが続く「しみとほる」に感じられます。秋の夜の酒はひとり静かに飲むのにかぎる、としみじみ感じている作者の頭に往来したのは過ぎし日々のことだったことでしょう。
秋の日は暮れるのがはやいといわれます。そのぶん続く夜は静かで長く、なにか手持ち無沙汰でもあり、ちょっとした心の余裕が持てる時。夕暮れの美しさを堪能した後は、余韻に浸りながらあなた自身の夜長を見つけてみませんか。
参考:
『枕草子』新編日本古典文学全集 18 小学館
『徒然草』角川ソフィア文庫
『若山牧水全集 第1巻』日本図書センター