ウクレレ(UKULELE)は、スティール・ギターとともにハワイアン・ミュージックの中心となる優れた楽器です。1879年の8月23日、ハワイに到着した、ヨーロッパ西端のマデイラ島からの移民船に、マデイラの民族楽器マシェーテ、またはブラギーニャを携えた青年がいました。青年はハワイに到着すると楽器を奏で、歌を歌いました。のちに、その楽器をもとにした「UKULELE(ウクレレ)」と呼ばれる楽器が誕生し、それを記念して8月23日は「ウクレレの日」と制定されました。
大西洋の「楽園」から太平洋の「楽園」へ…ハワイにやって来たマデイラの移民
ウクレレ(ukulele ukelele)は、ヨーロッパ、ポルトガルの民族楽器マシェーテ(machete)、またはブラギーニャ(braguinha)をもとにして、今から約140年前に、ポルトガルのマデイラ島からの移民が故郷の楽器に改良を加えて作られたものです。
ポルトガル領マデイラ島(マデイラ自治領)は、ヨーロッパの西端イベリア半島の西岸に位置するポルトガルから、さらに西南約1000km沖の大西洋に浮かび、どちらかといえばアフリカのモロッコに近い南国リゾート地。サッカーのスーパースター、クリスティアーノ・ロナウドの出身地としても知られていますね。ロナウドの精悍で野生的なルックスも、ヨーロッパとアフリカの交差するこの南の島の血と風土に培われたものでしょう。
1879年8月23日にハワイにたどりついたマデイラ船の427人のポルトガル移民の中の一人だったジョアン・フェルナンデスという青年が、ホノルル港の船のデッキで、携えてきたマデイラの弦楽器を奏でながら歌いだしました。
マシェーテ(machete)ともブラギーニャ(braguinha)ともいわれるその小さな弦楽器は、同じくその船に乗ってきた家具職人マニュエル・ヌネス、オーガスト・ディアス、ホセ・ド・エスピリト・サントの3人の手により、ハワイ島民たちが神殿やカヌーなどに使っていたコア(koa)の木を素材にして作られ、移民たちは各所でそれを奏ではじめました。
ハワイ島民たちはこの楽器に興味を持ち、やがて当時のハワイ王カラカウアの側近エドワード・パーヴィスが王の前で演奏、弾き方を伝授したことで、ハワイ中に広まり定着していきました。
ちなみに、パーヴィスが小柄で、機敏に動くその様子から、楽器はやがて「飛び跳ねるノミ」を意味するukuleleという愛称になっていった、という言い伝えもあります。
それにしてもなぜポルトガル人は、太平洋の真ん中に浮かぶ遠い異郷の島に、はるばる移住をしたのでしょうか。
そこには、19世紀の世界の大きなうねりがかかわっていました。
ハワイを統一したカメハメハ大王。しかしその選択は思わぬ事態に
太平洋のど真ん中に浮かぶ火山列島ハワイ。大陸から人類がこの島に到達するのは容易ではないのは世界地図を見れば一目で分かります。大航海時代まで、無人島であってもおかしくはないようなこの島に人類が到達したのは、日本で言えば弥生時代に当たる3~4世紀ごろと考えられています。ハワイ諸島の最南端、ハワイ島のサウスポイントの岩礁には、当時たどり着いた人々が船をつなぐために岩に開けた穴が、今でも残っています。
はるか太古の紀元前数千年前、台湾付近から発した一部の人々はフィリピン、インドネシアを経て、広大な太平洋に進出していきました。手漕ぎカヌーの技術と航法を用いて南半球の島々へ次々と移住し、ポリネシア人、ポリネシア文化を形成し、ついには高度な航海技術を駆使してカヌーで北半球のハワイ諸島にまで至ったのです。
8世紀頃になるとハワイよりも文化の進んだタヒチ島から、王家の兄弟、ウルとナナウルが渡ってきてハワイ諸島を分割統治するようになります(ウルがハワイ島とマウイ島、ナナウルがオアフ島、カウアイ島、モロカイ島)。ウル王朝とナナウル王朝の血統は、現代でももっとも高貴な血筋とされています。
さらに11世紀ごろ、ポリネシアの文化的中心地ともいえるサモアからやって来た「高僧パアオ」なる人物が、当時のウル王朝の王・カパオを倒し、位の高いサモアの神官・ピリを招き寄せ、ピリを王とするピリ王朝を打ち立てました。
ピリ王朝は、生贄の風習のあるサモアの宗教をハワイに取り入れ、その後、生贄を習慣とするヘイアウ(聖壇・聖所)がハワイ各地に設けられ、島民たちの生活を厳しい戒律で縛る掟「カプ(Kapu)」が強化されていきます。カプは、それを遵守することで人それぞれが生来持っている運命や生命力の複合的な力の源「マナ」を強化し、消耗を防ぐ意味があるものと信じられていました。
その後、厳しい掟に則りつつ、ハワイ諸島には安定した時代が流れます。
激動の時代は、1778年、イギリスの海洋探検家キャプテン・クックことジェームズ・クック(James Cook)がハワイのカウアイ島に上陸、ヨーロッパ人によるハワイの「発見」によってはじまりました(クックは島民に神の到来と考えられ、最初は歓待されたものの、翌年にはハワイ島で殺され食べられてしまったとも…)。
数年後、ハワイ島とマウイ島の一部を統治する王ケオーウアが従兄弟のカメハメハによって殺され、ハワイ島は分裂状態に陥ります。カメハメハは、ハワイに多く自生する白檀をヨーロッパの貿易商人たちの持ち込む鉄砲と交換し(白檀は清王朝に売りさばかれました)、鉄砲で武装した軍隊を率いてハワイ島を統一、1795年にはハワイ王国(Aupuni Mōʻī o Hawaiʻi)を樹立して第一代君主「カメハメハ大王」に即位します。
15年後にはハワイ王国はハワイ諸島の大半を統一しました。
ハワイ王国は海外との交易によって経済的に潤っていきますが、同時に海外からの移住者由来のウイルス病、細菌病に侵され、在来島民の人口が減少して人手不足に陥りました。そこで、海外からの移民を大きく受け入れて労働力を確保しようとしました。
カメハメハ二世の統治時代には、キリスト教文化を持ち込む欧米人の流入がとまらず、欧米の資本家による土地や権力の掌握、ハワイ文化の破壊と在来島民への抑圧がはじまります。そして、カメハメハ一世が王国樹立を宣言してからわずか103年後の1898年に、アメリカの準州となってしまいます。
余談ですが、ハワイがアメリカに飲み込まれようとしていた1885(明治18)年、当時のハワイ王カラカウアは日本を訪問し、明治天皇に謁見しています。そして、姪のカイウラニ王女と皇族の東伏見宮依仁親王の縁談と、天皇家とハワイ王家による両国の連邦構想を持ちかけたといわれています。明治天皇は、欧米、とりわけアメリカの不興を買うことを懸念して拒絶しましたが、これをもし受け入れていたら、その後の歴史は変わっていたかもしれません。
不思議なパワーが流れるハワイで癒しの音色は生まれた
ウクレレは、クラシックギターをぐんと小型にしたような形で知られる弦楽器ですが、大きさにはさまざまあり、両手に収まるような小さな「ベビー」から、「ソプラノ」「コンサート」「テナー」、そしてテナーギターとほぼ同サイズの大きな「バリトン」と、種類が分かれます。胸元に引き寄せて赤ちゃんを両腕でかかえるようにしたスタイルで奏されるウクレレはほとんどがソプラノ。近年では1サイズ上のコンサートが使用されることも多くなっているようです。
弦は四弦で、一般的にはナイロン弦を使用(フロロカーボン弦、ナイルガット弦も使用されます)。独特のコード調弦で、のどかで優しい音色を作り出します。その音は自然音に共通する1/fの揺らぎを持つともいわれ、また音量も人のささやき声や会話の声の大きさとほぼ同じで、耳に優しい楽器といわれています。
歴史を足早に見てきたとおり、決してハワイは「平和でのどかな楽園」であったことはなく、厳しい戒律や処罰、争いが繰り返されてきました。それでもやはり、ハワイにはその歴史をも打ち消すような、包容力のある空気・パワーがみなぎっているように感じます。
ニュージーランドのラグビーチームのパフォーマンスで有名な、マオリ族の伝統舞踊ハカ。私達が「フラダンス」と言って思い浮かべるレイ、腰みのをつけた女性たちがスティール・ギターやウクレレの演奏に合わせて優雅に踊るモダンフラ=フラ・アウアナではなく、聖所でヒョウタンやサメ皮の打楽器に合わせて神々や王・英雄を称え奉納する野生的で伝統的なフラ・カヒコを見ると、フラの源流もハカを生んだ南太平洋のポリネシアを源流にしていることが感じられます。
しかし一方で、フラ・カヒコの踊りも、フラ・アウアナと同様に官能的な腰の動きを有し、ハカとの明確なニュアンスの相違があり、ハワイ独自の文化が反映されています。
同様に、ウクレレとそのもととなったブラギーニャの透明感のある音質は、調弦の差こそあれ、どちらも非常に美しく温かみがあり、似て非なるものを感じます。しかし、ウクレレがもつ太平洋のたおやかな波のような音色には、独特の癒しのパワーが感じられます。ウクレレは、ハワイに流れる不思議な作用があってこそ生み出された楽器といえるのでしょう。
参考・参照
Braguinha da Madeira
Jake Shimabukuro: Over The Rainbow
ハワイの神話と伝説