新年明けましておめでとうございます。令和二年(2020年)の干支は、十干が庚(かのえ 金の兄)、十二支が子(ね ねずみ)の「庚子(かのえね)」。庚は金気、子は水気となるため、「金は水を生ず」の相生(そうしょう)。「相克」の2019年、「比和」の2018年と比べて、良い運勢の年のようです。運気といえば、初詣に正月飾り、正月は一年のうちでももっとも験かつぎや神頼みの風習が多い時期。華やかな正月飾りが目を引きます。正月飾りの中で、特に目立つのは門松ではないでしょうか。
ひときわ目を引く正月飾り「門松」。でも何だか主役は…
正月の正月飾り。戸口正面にかける注連飾り、床の間やリビングの棚、仏壇に供える鏡餅と並んで、門や出入り口の両脇に据えられる門松は、通りに面した場所に飾られることもあり、存在感が際立ちます。
近年はかつてよりは個人宅の門に飾られることは少なくなってきたとはいえ、大きな商業施設やビル、公共施設やマンションなどの門前には、人の背丈ほどもある立派な門松がデンと据えつけられ、正月という晴れの日のスペシャル感を感じさせてくれますね。
門松は、もともとは身分の低い庶民が、松や榊などの霊力の高い常緑樹の若枝を、家の出入り口の両脇にしばり付けた正月飾りだったようです。地域によっては山から年末に松の木を切り下ろしてきて、家中の全ての入口や仏壇、神棚、便所、物置、家畜小屋、家屋の大黒柱にも飾り付けました。現在でも、松の細い一本枝に茅の輪を取り付けた門松飾りは普通に正月飾りとして販売されていますね。
しかし、何と言っても「門松」と言って思い浮かぶのは、太い竹を三本、真ん中の竹をもっとも高くして斜めにそぎ切りにしたものを中央に立て、その周囲にこんもりと松の葉を配してぐるりと藁むしろで束ねた形のものです。梅の花枝を添えて松竹梅を演出したもの、赤い実のマンリョウや葉牡丹、シクラメンなどを加えて華やかさを添えたものなど、バリエーションも見られます。門松の主役はその名の通り松なのですが、どちらかというと切っ先鋭くそそり立つ三本の青竹がとにかく目立ちます。巨大門松として有名な大阪府寝屋川市の成田山大阪別院明王院の門松は高さ13メートルもありますが、一木まるごと使った松の若木よりも、10本以上束ねて高くそそり立つ青竹の迫力が目を引きますし、愛媛県西予市野村町の20メートルにもなる、おそらく日本一の巨大門松も、主役は塔のようにそそり立つ竹です。門松というよりは「門竹」と言ったほうがいいような気もします。
竹束から見えてくる門松の本質
もともとは松飾りだった門松に竹が加わったのは、江戸時代初期ごろと推測されています。明治後期から昭和初期の江戸学の先駆者・三田村鳶魚(えんぎょ)によると、松にあわせて竹を飾るのは格式の高い大名の家柄で始まったものだったといいます。特に将軍家(徳川家)のものは独特で、戦で弾丸避けとして開発された竹束の盾を松とあわせたもので、更に先端は斜めに削ぎ切りになっていました。近現代のいわゆる太竹の削ぎ切りの門松は、ここから始まったとも考えられます。
徳川家が門松に竹の盾を添えるようになったのは、武家の棟梁としての気構えを形にしたものだったのでしょう。そして、武家が門松に竹束を使用したのは、門という外との境界に立てるものであることからも、門松とは外敵除け・魔除けの意味を持つものだったことは容易に推測できます。
ところが、ネットフリー辞書等を含めて、伝統的な風俗風習を解説した歳時記などでは、門松は正月に各家に訪れ留まる歳神様の依り代(神霊が取りつく物体や人)である、という説明が多く見られます。けれどもどうでしょうか。正月にお迎えする大切な賓客ならば、その座す場は家のもっとも格の高い特等席に設けるのが道理で、門の脇に設けるでしょうか。
ヒイラギやイワシで形作る節分飾りが魔除けであるように、門松も素直に考えれば魔除けであり依り代ではないはずです。『史記』に「松柏為百木長而守門閭」(松柏は百木の長、而(しこう)して門閭(もんりょ 村落の門)を守る)とあります。松や檜(ひのき)などの常緑樹はいつまでも生き生きと緑を保つことから、長寿や繁栄の象徴とされ、めでたいものの典型とされました。門松の意味は「門閭を守る」の言葉で明確です。「歳神の依り代」ではなく、「長寿を約束するめでたい縁起物だから」飾られるのではないでしょうか。
正月にやって来る?「歳神様」の正体とは
門松や注連縄、鏡餅でお迎えする、と説明される歳神。一体どんな神様なのでしょう。
歳神は、大歳神とも歳徳神とも呼ばれ、穀霊・田の神と先祖霊が習合したものである、と説明されます。けれども、『古語拾遺』では、大歳神は田の神である大地主神が、その土地を耕してきた人に牛を食べさせたことに腹を立て、大地主神の守る田にイナゴを放ち、収穫を台無しにしてしまう神として登場します。
この逸話では、どうも歳神は田の神とは言えないようです。むしろ自在に災害を起こすことの出来る、荒ぶる自然の脅威、あるいは疱瘡神が神格化したもののように考えられます。このような神を、敬して遠ざけこそすれ、穏やかであるべき正月に家に出迎えて歓待するものでしょうか。ちなみに大歳神は、『古事記』では須佐之男命(スサノオノミコト 素戔嗚尊)の一子であるとされます。そして素戔嗚尊は暴風と疫病を司る神です。
一方で歳徳神は、陰陽道で信仰される人の運命を司る神で、毎年変化する歳徳神からのご利益が流れ出てくる方角を「恵方」と呼んで、その方角に向けて「歳徳棚(年棚、恵方棚とも)」を吊り下げ、正月には注連縄や鏡餅、神酒を供えました。節分の風習として近年スタンダードになった「恵方巻き」も、ここから来ているまじない行事ですが、この歳徳棚から言えることは、神様本体をお迎えするというよりも、神から流れ出る何らかの良きパワー、エネルギー、運気といったものを、家の中や家人に呼び込もう、という風習行事だということ。もっともそのパワーそのものを神格化するのならば、
あばら家も歳徳神の御宿かな (小林一茶)
というように、歳徳神がわが家にお泊りになる、というイメージも、間違いではないのかもしれません。
ちなみに歳徳神は「年爺さん」という異名もあって白髭をたくわえた仙人のような翁の姿でも描かれますが、多くの場合貫禄のある大柄で長髪の美女、女神像として護符などには描かれることが多いのです。これは、歳徳神が、祇園・八坂神社の祭神・牛頭天王の后・頗梨采女(はりさいじょ)である、とする言い伝えがあるためです。牛頭天王は素戔嗚尊です。
大歳神は素戔嗚尊の息子。歳徳神は素戔嗚尊の后。
大晦日に各家を訪れるなまはげなどの仮面の来訪神もまた年神ともされ、わけても鹿児島の下甑(しもこしき)島の来訪神は、その名もずばり「トシドン=歳どん」です。来訪神もまた素戔嗚尊の伝説と関係があります。このようにさまざまな側面から光を当てて見ますと、歳神の正体(習合された神々の核の部分にある信仰対象)は、素戔嗚尊なのではないかと、筆者には思えてならないのです。
(参照・参考)
風土記 (岩波古典文学大系)
古語拾遺 (斎部広成 岩波文庫)
門松の起原についての流布説の出鱈目
良い運勢の年と言われる令和二年。皆様にとって素晴らしい一年になりますよう、お祈り申し上げます。