桜の開花日が必ず話題になる昨今の天気予報、空模様のチェックとともに心が浮き立ってきませんか。桜が一輪でも開けばもう春は本番! 厳しい寒さを超えてきた今、どんなに寒さが戻ろうと心はすっかり春の明るさにむかっています。今年の見頃はいつかな? とお花見の計画にあれこれ悩むのもまた楽しいですね。堅いつぼみが色づくのを待つ心、ふくらみ開き華やかさをまして、満開のあふれんばかりの花のボリュームに、ささやかな風に散るいちまいの花びら、やがて花吹雪が舞い葉桜の緑にと、季節の過ぎゆく一刻を五官で感じさせてくれるのが桜でしょうか。
桜はなぜ「開く」っていうの? 「咲く」とはいわないの?
今年の桜の開花日は? 開花予想は? 開花まであと何日? などニュースや報道では「開花」ということばが使われていますね。あたりまえのように聞いていますが、ふだん私たちは「ねえ、桜開いた?」とはいわずに「桜咲いたかなぁ」などと「咲く」といいませんか? 堅くしまっていたつぼみが軟らかく膨らみ、しだいに開いていく姿を克明に観察しているとつい「咲く」より「開く」っていいたくなるのでしょうか? ちょっと調べてみると「開」にはもう一つ意味があることがわかりました。
それは「開く日(ひらくにち)」という「縁起のいい日」という意味です。日々の吉凶を示した十二直(じゅうにちょく)という昔の暦に記されていたもののひとつで、「開く日」は結婚、旅立、芸事などすべての物事を始めるのにいい日という意味です。
「桜が咲く日」は春の始まりを実感する「縁起のいい日」という意味なのでしょうか。そういいたかった気持ちはよくわかりますよね。さあ、開花を待ちましょう! あなたのところではもう開きはじめましたか?
桜に魅せられた日本人の心は和歌に託されて…
「桜」の時期になると多くの人の心に浮かぶ歌人やはり西行法師でしょうか。
平安時代末から鎌倉時代初めにかけて生きた歌人ですが、生まれは武士です。若くして出家し、隠者のように暮らしながら各地をめぐり多くの歌を残しました。桜を詠ったものも多いことが知られています。
「花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の とがにはありける」
ひとり静かに暮らす西行にとって、大勢の花見客は迷惑に感じられたのでしょう。そのことを「残念ではあるが桜の罪」と嘆いています。そぞろ歩きの花見ならばゆるせても大勢で押しよせられると困ってしまう、というのはわかるような気がします。
この歌から後に世阿弥は『西行桜』という能を一番作っています。そこで桜の精を登場させて「草木である桜に罪はないのですよ」と、京の花の名所を次々と謡いながら語り舞って西行を説得します。夢のような夜が明けるとひとり西行が残されています。桜の精と過ぎゆく春を惜しんだ西行の心が伺える作品です。芸の盛りを花にたとえて能楽の道を伝えようとした世阿弥ならではの一番、そうおもわれます。
「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」
西行はこの辞世の歌のとおり、文治6年2月16日(1190年)に亡くなっています。花と歌に生涯を捧げた西行が語り継がれていくゆえんのひとつです。
桜が満開になると… 浮き立ちますね! ざわつきますね!
人のこころを沸きたたせる「桜」は作家のイマジネーションもかき立てます。タイトルの華やかさが目を惹く坂口安吾の代表作『桜の森の満開の下』は思わず手にとってみたくなる一冊です。どんなロマンティックな話なんだろう? と思って読み始めるとなんともいえない幻想の世界に引きずりこまれます。鈴鹿峠の山賊と妖しい美しさまとう残酷な都の女の物語、興味を持たれた方はぜひ読んでみてくださいね。
この作品からイマジネーションをかき立てられた劇作家がいました。野田秀樹です。学生時代に劇団を立ち上げ活動を開始し、日本のみならずロンドンなど世界で活躍しています。野田は安吾の『桜の森の満開の下』と『夜長姫と耳男』の二つの作品から『贋作(にせさく)・桜の森の満開の下』を作りました。野田らしい言葉遊びをふんだんにちりばめたセリフはテンポ良くリズムにのって俳優の口から飛び出し、ありえないようだがあったに違いない世界に賑やかに引きこまれ、やがて心の奥をのぞき込んでいく、独特の世界観が人々を惹きつけています。
桜は人の心をなごませ幸せにするとともに、美しさと儚さゆえに魅入られてしまう不思議な力をもっています。
「さまざまな事思ひ出す桜かな」
芭蕉のこの句には誰もがフッと立ち止まります。まるで自分を見かえる時間を与えてくれるような句です。あなたの今年の桜はどんな桜になりますか。