このたび「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」について、世界遺産委員会の諮問機関ICOMOSが「記載妥当」と判断、当遺産が世界文化遺産に登録されることとなりました。
今の自由な日本に暮らしていると、隠れキリシタンや潜伏キリシタンと呼ばれる邪宗門に、かつて凄惨な迫害と虐殺が繰り返されされた、などということは信じられないことのようなことに思われます。ですが、日本列島の西の果ての西海を舞台に、キリスト教信者に対して過酷な弾圧が加えられたことは、まぎれもない事実なのです。
そもそもなぜキリスト教は禁教とされたのでしょうか?
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、長崎県長崎市、佐世保市、平戸市、南島原市、北松浦郡小値賀町、南松浦郡新上五島町、五島市、熊本県天草市に点在する、江戸期潜伏キリシタン(切支丹)関連の12の歴史資産によって構成されています。
日本へのキリスト教の伝来は、1549(天文18)年、スペイン王国イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)によりもたらされましたが、豊臣秀吉の「バテレン追放令」を皮切りに、江戸時代に入っての徹底的なキリシタン弾圧によって、およそ250年間にわたる禁教弾圧の時代を迎えることになります。キリスト教信仰の禁制と信者への弾圧、そして信者の潜伏の歴史が、世界に類を見ない歴史遺産として認定されたわけですが、そもそもなぜ日本ではキリスト教は禁教とされたのでしょうか。日本は仏教国ですが、その仏教も外来の宗教です。そして仏教国とはいえ、一般の日本人は実質無宗教で、特定の宗教を熱心に信仰している人はごくわずかです。そんな日本で徹底的な宗教弾圧が行われたことには、理由がありました。
その大きな転機となったのは1596(慶長元年)年に土佐(高知県)の浦戸に、当時スペイン領だったフィリピンのマニラからメキシコのアカプルコに向かっていたスペイン船、サン-フェリペ号が漂着し騒動となった、いわゆるサン-フェリペ号事件です。このとき、捕縛されたサン・フェリペ号の水先案内人が「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、まずその土地の民を教化し、その信徒を内応させて軍を導きいれ、その国を併呑する」という意味のことを告げたために秀吉が激怒、在日スペイン人宣教師を処刑した、という逸話がありますが、これは昭和になってからの創作のようです。
ただし、当時世界最強を誇っていたスペインが、実際に日本を最終的に植民地化しようと考えていたことは事実だったようで、まず、宣教師により信者を増やし、キリスト教に帰依させたキリシタン大名と結託、明(当時の中国)を攻撃、植民地化したあと、日本を東西で分断して武家政権を倒そう、と考えていたことが明らかになっています。当時戦国期がようやく沈静化したばかりの日本は、刀剣も充実し、自国大量生産に成功した火縄銃の数も世界的にもトップクラスでした。たとえ大帝国のスペインでも遠いヨーロッパからやってくるため、日本を武力で制圧するのに兵站に不安があったために、すぐに侵略することは控えていた、と言う事情があったのです。
こうしたスペインのもくろみは、自身も世界征服の野望を抱いていた秀吉にとっては看破することは容易であり、大阪の膝元でおおっぴらに宣教活動をしていたフランシスコ会の宣教師と信徒を長崎で処刑(二十六聖人殉教)、そして「バテレン追放令」によりキリスト教を実質禁教としたのでした。
秀吉から政権を奪い取った徳川家康もまた、基本的に秀吉の禁教政策を引き継ぎます。キリシタン国外追放令により約300人の信徒・司祭をマニラとマカオに追放。その中には、有名なキリシタン大名高山右近も含まれていました。、1622年の元和の大殉教(げんなのだいじゅんきょう)では、長崎において総勢55名のキリスト教徒と宣教師を火あぶりなどによって処刑しました。ここでは、フランシスコ会の宣教師のみならず、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会のカトリック宣教師をことごとく処刑することになります。さらに1637年に島原半島と天草で勃発した空前の民衆蜂起「島原・天草の乱」では、反乱に参加していた者たちの大半がキリスト教徒であったことから、以降の江戸幕府の取り締まりは激しいものとなりました。「島原・天草の乱」は、決して宗教戦争ではなく、過大な年貢を課せられた農漁民たちの貧窮がきわまっての暴発だったのですが、特に九州西南部という地勢が、反体制勢力の温床となる危険性を重要視した江戸幕府は、以降スペイン・ポルトガルというカトリック両国との完全な断交、交易を許したオランダ・中国とも長崎の出島のみでの交易とする、いわゆる「鎖国」に舵を切ることになりました。
弾圧時代の潜伏キリシタンの生活とは?
江戸幕府はキリシタン禁教の高札を掲げ、各地で信教を放棄しないキリシタンの処刑も行われました。特に三代将軍家光の頃には迫害は苛烈を極め、藩主たちは領内の「宗門改め」を執拗に行い、転向を拒む者は老若男女を問わず一族もろとも惨殺し、転向したものについても「転び切支丹」として、厳重に監視をし続けました。見つかれば厳しい処罰が待っている潜伏キリシタンたちは、さまざまな工夫により信仰と祈祷の行事をカムフラージュして継続しました。
たとえば外海(そとめ)の出津(しつ)集落では、複数の小さな「組」に分かれ、それぞれが組を統括する「ジヒサマ」と呼ばれる指導者を選出、集落の洗礼、葬儀、祈祷集会などをジヒサマが司どり、組織を継続しました。クリスマスのことは「ご誕生」と呼び習わし、夜通しの祈祷が行われました。
同じく外海の大野集落はさらに規模の大きい隠れキリシタン村で、集落内にある大野神社、門神社、辻神社の3つの神社はキリシタンの庄屋が神主を勤め、村人は氏子としても振る舞いながら、外見は神社を装いながらキリスト教寺院として機能させ続けました。
平戸に程近い生月島では、マリア像を納戸の奥や石垣、また田んぼの中に隠匿して発覚を逃れようとしました。一見それとわからないキリスト教の聖人やキリスト、マリアの描かれた聖画を「納戸神」という名をつけて拝み、氏神信仰をしているように装いました。生月では、囲炉裏に聖具や聖像(ゴゼンサマ)を隠していたことが露見してから、屋内に囲炉裏を切ることも禁じられたといいます。
天草の﨑津集落では、表向き仏教徒を装いながら、ひそかに洗礼やオラショ(Oratio 祈祷)を伝承し続けました。集落の長老格が「水方」とよばれる指導者となり、子どもの誕生時に洗礼をさずけ、また、仏式葬儀の際には隣接した小屋から仏教のお経を打ち消すためにキリスト教の祈祷を同時にを唱えるということがおこなわれ、これを「経消し」と呼びました。
また、身近なアワビ殻や一文銭、鏡などを聖器・聖守護物として信仰し、心のよりどころとしていたようです。
絵踏みと称される聖像をかたどったレリーフや絵を足で踏むことでキリシタンではないことを証する詮議もたびたび行われ、信徒たちは絵踏みを行いながら、夜、懺悔の祈りをささげる日々を送っていたのです。
しかし、江戸後期になると、潜伏キリシタンの摘発も、手心が加えられるようになる傾向もあったようです。
たとえば1805年、﨑津をはじめ今富、大江、高浜の4村の潜伏キリシタンが「宗門心得違者」として五千人あまりが摘発されます(天草崩れ)。けれども彼らはキリシタンとしてではなく、「心得違いの者」として摘発されました。藩役人は潜伏キリシタンであるとわかっていても、婉曲して穏便に済ませようとしたことが読み取れます。その頃になると、潜伏キリシタンとそれ以外の一般の村人たちも、ことを荒立てず、共存していく術を獲得していたため、時々脅しをかけつつ、黙認していたこともあったようです。こうして七代250年にわたって潜伏し続けたキリシタンは、ローマからいつか神父が船に乗って遣わされる日が来ることを夢見ながら、信仰の日々をすごして行ったのでした。
潜伏キリシタンとカクレキリシタンの違いとは?
時は流れ幕末、産業革命をなしとげて技術進化をした欧米列強の武力には、もはや太平日本の武力は太刀打ちできず、幕府は次々と通商条約を結ばされ、開港地には続々とカトリック、プロテスタントの司祭・牧師が入ってきました。長崎には、1865年大浦天主堂(フランス寺)が建造されます。この天主堂を一目拝みにとやってきた潜伏キリシタン十数名が、司祭プチジャンに「サンタマリアノゴゾウハドコ?」と話しかけます。
これが、キリスト教史に奇跡として語り継がれる「信徒発見」の瞬間でした。
しかし、「隠れ」ていた者が白日の下にあらわれたことにより、むしろキリシタンの弾圧はそれ以降に再び激しさを増すことになります。明治政府は神道による一神教的な強い紐帯を国家の柱にすえようと考えており、全国に国家神道の「宣教師」を派遣してあまねく国民を国家神道の「信徒」にしようとしていました。江戸時代までとは別の目的で、キリスト教を禁教としようとしたのです。浦上四番崩れ、五島崩れなどと呼ばれるキリシタンの摘発と大規模な捕縛、拷問、処刑が次々に起こりました。
五島列島で行われた拷問では、わずか六坪の土間に200人もの信徒を八ヶ月間にもわたり押し込め、多くの者が圧死、病死していったといわれます。
明治政府のこの行いはフランス公使やイギリス公使の知るところとなり、激しい抗議が行われました。また、1870年、欧米との不平等条約の解消を目的に旅立った明治政府の使節団は、欧米諸国からキリスト教徒への処遇について改善しない限り、平等条約を結べない旨を告げられ、ようやく1873年、政府はキリシタン禁制を解いたのです。
こうして、それ以降多くのカトリックの司祭が潜伏キリシタンの集落を訪れ、カトリックへの正式な帰依と布教の体制を形作ろうとしました。
しかし、カトリックに入信したのは、潜伏キリシタンのうちなんと半分ほどで、残りの半分は先祖伝来の信仰を守り、カトリックへの入信を拒絶しました。200年以上も潜伏してきた信仰は、教義や祭祀の形式も、もとのカトリックとは大きく異なったものになっていたこと、また、キリシタンではない村人たちと、それまでは村の行事や風習でも折り合いをつけて共存してきたのが、カトリックと言う別物の宗教に入ることで、村の氏子や檀家からはずれねばならず軋轢が生じることなどが理由でした。
カトリックに帰依した者も、また古いキリシタンの風習を続けることを選択した者も、時代の変化の中でかえって互いに齟齬や断絶が生まれることもあったようです。
キリシタン禁教の高札が外された後も、古いキリシタンの風習のまま生きることを選んだ信徒、または集落を、学術的には「カクレキリシタン」とカタカナ表記にすることで、潜伏キリシタンと別概念として扱うこととされました。現在も「カクレキリシタン」の信仰を守る人々は、この地に生きついでいます。
参照
生月史稿 (近藤左ヱ衛門 芸文堂)