2月25日は道真忌。学問の神様、菅原道真の命日です。道真公を祭神とする全国の天満宮では、梅花祭の例祭が行なわれます。特に、全国約1万2000社の天満宮、天神社の総本社・北野天満宮でのこの祭礼は、古くは「北野菜種御供(きたのなたねごく)」ともいい、春の季語にもなっています。なぜ現在は菜の花ではなく、梅の花の祭りとなったのでしょうか。梅花祭をめぐる時代の流れを追ってみましょう。
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花
菅原道真(845-903)は、平安時代の廷臣であり漢学者、文人。代々学者の家柄に生まれ文才に優れ、宇多・醍醐両天皇に重用されました。遣唐大使に任命されましたが、彼自身の提案により遣唐使は廃止となります。唐朝の混乱や日本文化の発達などが理由でしたが、政治家としての力量も高かったと言えますね。道真は、盛んな文章活動や私塾の主宰で宮廷文人社会の中心となり、スピード出世も果たします。
しかしその栄進を妬むライバル・藤原時平の中傷によって、道真は大宰府に左遷され、その地で2年後、失意のまま59歳で亡くなりました。配流される際に自宅の梅の木を詠んだ歌が有名です。
「東風(こち)吹かば匂(にほ)ひおこせよ梅の花主(あるじ)なしとて春な忘れそ」
春の東風が吹くようになったら花を咲かせて香りを届けてくれ、梅の花よ、私がいなくても春を忘れないでおくれ。といった意味でしょうか。
道真の死後、京都では天災が続き、また藤原氏一族の変死も重なります。世の人は、これを道真の怨霊によるものと畏れました。そして平安朝から急速に広まった、御霊信仰や雷神信仰と結びつきます。天神信仰として独自に発達しながら、北野天満宮、太宰府天満宮をはじめとする各地の天神社を生んだのです。やがて怨霊への畏怖が静まると、道真を学問の神と崇めるようになり、学業成就の守護神へと変化していきました。
朗々と祝詞清しき梅花御供
2月25日、菅原道真の命日に京都市の北野天満宮で行われる北野梅花祭。古くの陰暦の頃には北野菜種御供といい、菜の花を神饌に挿して献じられていました。現在では梅の花が用いられますが、神官の冠には菜の花を挿します。菜の花から梅への変化の理由は、道真が梅の花を生前に愛したことや、新暦で行う現在では季節的に菜の花利用が難しいことなど、諸説あるようです。
神饌とは玄米を蒸したもので、男女の厄年に因んだ数を丸く盛って備えた後、参拝者に授与されます。これをいただくと病気平癒の伝えがあり、また学問の神様ということで受験生やその家族も含め、たくさんの参拝者が訪れます。
この日、三光門前広場では「梅花祭野点大茶湯」も催されます。豊臣秀吉がこの場所で北野大茶湯を催した故事にちなみ、道真公の没後1050年の、昭和27年から始まった行事です。梅の見頃を迎えた境内での芸妓さん達による野点は華やかで美しく、こちらも大人気です。
一つづつの小さき黄だんご菜種御供
亀戸天神では、「菜種(なたね)」が「宥め(なだめ)」に通じるという謂れを尊重し、同じ2月25日でも菜種御供祭として、昔のままに菜の花を供えます。また、道真が大宰府下向に際し、伯母の覚寿尼を訪れたゆかりの地である藤井寺市の道明寺天満宮では、3月25日が菜種御供大祭。菜の花が供えられる中稚児行列が行われ、覚寿尼にちなんだ菜種色の団子を授与される祭事は、「河内の春ごと」として親しまれています。
俳句の世界では、菜種御供、北野梅花祭、梅花御供、天神御忌、道真忌などが同類の季語となります。初春の清々しさ漂う句をいくつかご紹介しましょう。
朗々と祝詞(のりと)清(すが)しき梅花御供
<高嶋象子>
西陣の帯の売れ行き梅花祭
<星野野風>
本殿に琴運び込む菜種御供
<椹木啓子>
尼宮に風まださむき菜種御供
<高木石子>
一つづつの小さき黄だんご菜種御供
<物種鴻兩>
ともしびの漏れくる菜種御供の森
<加藤三七子>
菅原道真を祀る全国の天満宮の数を考えると、昔の人びとの怨霊への畏れ、学問への希望が改めて思い起こされますね。そんな思いや梅見を兼ねて、天神さんにお参りするのも趣深いのではないでしょうか。
【句の引用と参考文献】
『新日本大歳時記 カラー版 春』(講談社)
『カラー図説 日本大歳時記 春』(講談社)
『第三版 俳句歳時記〈春の部〉』(角川書店)