東日本大震災から8年が経ち、今年も桜の季節が近づいてきています。2011年3月11日を仙台で経験した一人として、当時の宮城県の気象キャスターとして、感じたことを綴りたいと思います。
●被災地のテレビ局で経験したこと
あの時間、私は宮城県にあるテレビ局のメイク室にいました。突然巨大な長い揺れに襲われ、メイク道具などあらゆる物が水平に飛び散らかりました。部屋にいたメイクさんたちと私は、机の下にもぐり肩を寄せ合って、揺れがおさまるのを待ちました。とても長い時間そうしていたように思います。揺れがおさまって、報道に戻ると、放送局はすでに緊急報道体制に入り、報道フロアにいたアナウンサーが揺れの状況を伝えている最中でした。
私は、夕方の天気コーナーの出演がなくなり、報道の仕事の手伝いをしました。電話取材しようにも、相手の電話が繋がりません。はじめはほとんど情報が掴めなかったのを覚えています。何が起こっているのか理解できないまま、次々に流れてくる震度や津波情報について、情報を整理することしかできませんでした。
けれど少し経って、次々と明らかになってくる被害状況は、とても現実のものとは受け止めがたいことばかりで、言葉を失いました。ケタ違いの恐ろしい出来事が起こっているのだと、ようやく分かり始めてきた夜でした。
私はそこから、しばらく放送局に寝泊まりすることになりました。局で毛布を支給されましたが、凍えるほど寒い夜でした。外や暗闇の中で、過酷な寒さにさらされた人たちを思うと、今でも心が痛みます。
●震災後、天気予報に求められたこと
当時、お天気コーナーは、放送局から仙台駅前へ移動して、外からの中継で天気予報を伝えるスタイルでした。あの地震が起きる前も、いつも通り一足先に駅前へ向かうスタッフに「これから雪が降ってきて、寒くなるよ~」と伝えて送り出したことを覚えています。その日は無情にも、予報通り、夕方は広い範囲で雪となりました。夜には回復して晴れたために、次の日の朝にかけて放射冷却が強まり、厳しい冷え込みになりました。
当時の気象観測システム(アメダス)も津波で流されたり、破損や通信障害によって、正確な情報の分からない地点がありました。記録データの残っている地点だけを見ても、宮城県はすべてで氷点下となっていますので、まして暖の取れない状況の下ではどれほどの寒さだったでしょう。雪や冷え込みが追い打ちをかけたこの日ほど、寒さを恨んだことはありません。
私の出演は、震災から一か月ほど経った頃だったように思います。それまでのような外からの中継ではなく、スタジオから淡々と気象情報を伝える毎日でした。その頃にはライフラインも少しずつ復旧していたように思います。天気予報は、復興作業を行う方々にも参考にしてもらえるよう、とにかく正確な情報を伝えることに努めました。また、沿岸部に特化した時系列予報、風向きの予測や、満潮時刻など、震災前には伝えていなかった新たな気象情報も必要とされました。余震も相次いでいて、地盤が緩んでいたことから、雨による土砂災害など二次的被害も心配され、より慎重な天気予報が求められました。
●東北の桜、美しく開花
震災から一か月、そんな中でも春が来て、東北の地でも桜が咲きました。被災地である福島と仙台の桜が、同日に揃って咲いたのです。桜開花のニュースを伝えた時のことは、今でも忘れられません。震災後初めて、ほんの少し笑顔で伝えることができた瞬間でした。沿岸部の桜も、ガレキの中で美しく咲き誇り、疲労した東北の人の心を癒しました。当時、お花見は賑やかにはできなかったけれど、その存在にどれだけの人が励まされたことでしょう。
仙台駅近くに、さまざまな品種の桜が楽しめるお花見の名所、榴岡公園があります。こちらの公園でも、震災の年には桜祭りは開催できませんでした。でも今では、東日本大震災の復興支援の一環として、長崎県から寄付された桜「オオムラザクラ」も仲間入りし、春にはさらに華やかさを増しています。ソメイヨシノが咲き終えた後に、少し遅れて咲く桜ですので、長い期間にわたって桜が楽しめます。これからも、見る人に安らぎを与え続けてくれるでしょう。
あれから8年という月日が経ち、今年も桜の季節が近づいてきています。被災者の方々が、いつか心から、桜を愛でる日が来ることを、祈っています。