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【悼む】広瀬叔功さん「ワシは何でも知っとるんやで」全て見透かしたような力に驚かされた


【写真】広瀬叔功さん

<悼む>

プロ野球南海のリードオフマンで歴代2位の596盗塁を記録し、南海監督を務めた広瀬叔功(ひろせ・よしのり)さんが心不全のため2日に亡くなっていたことが5日、分かった。89歳だった。広島県廿日市市出身。

  ◇  ◇  ◇

現役時代を知らない記者にとって、広瀬さんは祖父のような親しみやすい方だった。自分のことを「フーテン」と言い、球界のレジェンドでありながら偉ぶるようなことは一切なかった。いつもニコニコして、冗談ばかり言っていた。一緒に試合を見ていても、目の前の試合から話が脱線することも珍しくなかった。現役時代のお酒にまつわる話や昭和ならでは豪快なエピソードに、何度も笑わせてもらった。

特に現役時代の話には耳を疑うものもあった。当時は注目度が低いパ・リーグ。500盗塁に王手をかけてから報道陣が多く詰めかけたことで「走ってたまるか」と盗塁を狙わずに記録達成を先延ばしにしたという。さらに89試合目まで打率4割をキープした64年は「10年選手制度」となるシーズンで、初めてちゃんと練習をしたら腱鞘(けんしょう)炎になり「いつもやらないことをしたからやな。練習したからケガしたん」と笑った。それでも、サインに「努力と忍耐」を書き加えていたのは「自分への戒め。わしは努力をしたこともないし、忍耐力もなかったからな」。だから、指導者になっても選手には「努力と忍耐」を求めなかったという。豪快であり、筋が通った人だった。

広瀬さんは評論の日でも、試合が終わるまで球場にいない。タイミングを見計らい、席を立つ。まるで飲み会を途中退席するように、挙げた右手を小刻みに振りながら「失礼します」とニヤニヤしながら記者席を出て行く。「何かあったら、連絡してこいよ」。そう言って帰った試合は、いつも電話する必要がなかった。

すべてを見透かしたような力に驚かされたことは、評論のない日にもあった。連絡なく球場に来られていた広瀬さんの姿に思わず「どうしたんですか?」と聞くと「これを渡すために来たんや」と、右手に持った封筒を差し出してきた。「見舞金」と書かれていた。

当時、保育園に通う息子が入院していた。24時間保護者の付き添いが必要だったことで、しばらく球場と病院の往復の日々を過ごしていたときだった。ただ、周囲に悟られないように仕事は続けていた。部長やデスクにも伝えていなかったし、評論担当から外れていたこともあり、広瀬さんには伝えていなかった。知っている人は限られていた。

ほかの記者も知らない中でなぜ…。驚く記者の顔に「ワシはお前のことは何でも知っとるんやで」と、いつもの優しい笑顔を返してくれた。心身ともに疲れていた自分を包み込んでくれる不思議な力を感じた。

「あとはお前がまとめて書けば間違いない」

「会社に何か言われたら、ワシに言ってこい」

スポーツ紙記者として新人だった頃から言葉でも支えてもらった。「何かあったら、連絡してこいよ」。いつでも連絡できるという安心感に包まれていたことにも今、気づかされている。【15年~広島担当・前原淳】

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