
プロ野球南海のリードオフマンで歴代2位の596盗塁を記録し、南海監督を務めた広瀬叔功(ひろせ・よしのり)さんが心不全のため2日に亡くなっていたことが5日、分かった。89歳だった。広島県廿日市市出身。
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「おーい、生きとるか?」。名乗りもしなければ、もしもし、もない。年に1度か2度かかってくる電話は、それだけで広瀬さんだと分かった。体調、家族のこと、たわいもない話をして、最後は「また飲みたいのぉ」で締めくくり。さりげない電話でも、確実に私は元気になれた。
故野村克也氏は「ワシは天才を2人しか知らん。長嶋と広瀬や。アイツら何も考えんでも打ちよる」とよく苦笑した。データに癖、あらゆる手を尽くして戦後初の3冠王になった人にとって、来た球を簡単にはじき返すこの2人は別世界の打者だったかもしれない。
俊足強肩巧打の天才児。高1の夏に大竹高野球部に入り、1年後、先輩の付き添いで広島カープの入団テストを受けたら、合格した。むろん辞退。その1年後、南海に呼ばれて来阪。高校生なのに、いきなり対近鉄2軍戦に先発している。プロではすぐにショートに転向した。
私が担当記者になった1973年頃は兼任監督の野村さんとソリが合わずに、控えの時は大阪球場奥の部屋で球場職員と将棋を指していた。勝負どころで「代打広瀬」になると、若手選手が走って呼びに来てくれた。「おお、すぐ行く」と言って、一手指してからベンチへ。そして快打!
野村さんの後、監督になってからは不遇だった。4番捕手、抑えの切り札(江夏)、若手成長株(柏原)の3人が「野村騒動」で一気に去ったのだ。もぬけの殻状態からどう立て直すか。「鶴岡親分の時代に戻るぞ」。かけ声をかけても、あまりに戦力が薄過ぎた。
その手腕も含めて批判の声は聞いた。だが広瀬さんは鶴岡さんから受け継いだ「親分気質」を確かに持っていた。若気の至りでキャンプ地の若者ともめごとを起こし「ぶった斬ったる」と言われた時、監督だった広瀬さんが乗り込んできて仲裁をしてくれた。私にとっては実は命の恩人なのだ。
ユニホームを脱いでからの人生が断然長くなった。広島のビアガーデンで開店から閉店まで飲み続けたこと。大阪に来ると、幼なじみのすし屋さんに連れて行ってもらい、自分は食べない牛タン専門の高級店へ行って私だけがひたすら食べ続けたこと。弟のようにかわいがってもらった。
これからも家の電話が鳴ると「おーい、生きとるか?」の声が聞こえてくるのではないか。私は死ぬまで、そう思い続けるのだろう。【元南海ホークス担当 井関真】
