
プロ野球南海のリードオフマンで歴代2位の596盗塁を記録し、南海監督を務めた広瀬叔功(ひろせ・よしのり)さんが心不全のため2日に亡くなっていたことが5日、分かった。89歳だった。広島県廿日市市出身。
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ソフトバンクが5年ぶりの日本一に輝いた姿を見守ってくれただろうか。ホークスのレジェンド、広瀬叔功氏が天に駆けた。通算2157安打に加え歴代2位の596盗塁。輝かしい数字を残した南海時代のスタープレーヤーだった。
高3の夏。南海のテストに呼ばれた。「あれは、テストでも何でもないわ」。大阪球場で2軍戦にいきなり先発登板させられた。投球練習でミットに収まる音が球場内に響いたら、緊張してしまった。「高校時代にあんな球場で投げたことないからな」。いきなり連続四球を与え、3番打者に3ラン。「へなちょこな投手やな、と鶴岡監督は思ったやろな。俺はプロになるつもりなんかなかったからホームラン打たれても気にしなかった」。教師になる夢があった広瀬さんは悔しくもなかったという。それでも南海には合格した。
投手としてホークス入りしたが、やはり投手は厳しかった。1年で内野手に転向。その後ショートを守って活躍する。痛恨だったのは優勝がかかった阪急戦。1点リードの9回1死一、二塁からショートゴロをトンネル。2者が生還し逆転負け。試合後、後輩を連れて食事に出かけたが、悔しさ情けなさが募り自殺を考えた。
運転する車で大阪湾に飛び込もうとしたが、ハッとした。後部座席でいびきを立てて寝ている後輩に気づいた。「ほんと、海に突っ込んで死んでやろうと思うたんや。そしたら、後ろに後輩がいることに気づいてな。こりゃ、こいつを巻き込んだらアカンと。それで思いとどまったんや」。苦すぎる思い出話は何度も胸をさすりながら話してくれた。このプレーがきっかけで、さらに外野手転向を直訴。その後は不動の中堅として活躍した。
3年間の監督生活は苦労の連続。戦力補強もままならずチームは6、5、6位と沈んだ。「(球団は)経営的にも苦しかったから」と補強には口出ししなかった。「ただ、アホ(監督が)やっている野球やった」と愚痴はなかった。
広瀬さんはまっすぐな人だった。プロ入り直後のキャンプ。紅白戦で悠々セーフの三塁打を放ったが、ベースに滑り込まなかったことを鶴岡監督から怒られた。「やる気がないなら帰れ!」。そう言われると、さっさと宿舎に帰った。「親分」と言われた鶴岡監督に反抗態度を取った選手はいない。先輩からは「鶴岡監督にあんな態度を取った人間は南海始まって以来、お前が初めて」と言われた。60年ほど前の出来事を思い返して苦笑していた。
繊細すぎる一面もあって、飛行機が大の苦手。ダイエーのコーチ時代、遠征はすべて陸路だった。東北、北海道などは試合後から列車を乗り継いで現地に向かった。「ほな、一足先に行きますわ」。右手を挙げて足取り軽く歩いて行く姿が懐かしい。合掌。【佐竹英治】
