
3日に89歳で死去した巨人長嶋茂雄終身名誉監督の通夜が7日、告別式は8日に都内の桐ケ谷斎場で執り行われた。喪主は次女・三奈さん(57)、葬儀委員長は読売新聞グループ本社代表取締役社長で読売巨人軍取締役オーナーの山口寿一氏(68)が務めた。
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1951年(昭26)夏。当時の人気歌手、灰田勝彦の「野球小僧」という歌が大ヒットした。敗戦から立ち直ろうとしていた社会状況と、野球熱の高まりが重なり、日本中の野球少年たちが口ずさんだ。佐倉一高(千葉)に入学したばかりの長嶋さんもその一人。大人になってからも、興が乗るとそらんじていた。
印旛沼のそばで育った野球小僧が、東京6大学のスターになり、ジャイアンツの、そしてプロ野球のスターに駆け上がっていくさまは、復興期から高度経済成長期に向かう日本の象徴でもあった。一般家庭にテレビが普及し、野球放送の軸がラジオからテレビに移ると、長嶋さんの華のあるプレーは時代にマッチした。常に明るく、前向きな言動は、「明日は今日よりも良くなる」と信じることができた社会状況と見事にシンクロしていた。
オイルショックで高度成長が終わると同時に長嶋さんも現役を引退。今度は監督として世の中を明るく照らそうとしたが、1980年(同55)、日本中に衝撃が走った解任劇で現場を去った。浪人生活は実に13年に及ぶ。1992年(平4)秋に監督として復帰したタイミングもまた、時代の要請でもあった。
まず、野球界の危機。1991年(同3)にJリーグが設立され、1993年(同5)5月に開幕した。サッカーブームが起き、NO・1プロスポーツの地位が揺らいでいた。そして、日本経済の危機。バブル崩壊後、日本はデフレ経済にあえぐことになる。
就職氷河期、失われた20年と言われた時代にあって、生き抜くためにはセルフプロデュース能力が必要とされた。まさに長嶋さんの得意とするところだった。中日とのシーズン最終戦同率決戦10・8を「国民的行事」と呼び、「メークドラマ」を唱えて11・5ゲーム差を逆転して優勝した。セルフプロデュースで社会を巻き込み、プロ野球の地位を守った。
2004年(同16)3月、長嶋さんは脳梗塞で倒れた。右半身の後遺症を決して隠そうとせず、リハビリの様子などを積極的に発信した。折しも世の中は超高齢化社会に突入し、長嶋さんの姿は再び多くの人に元気を与えた。誰に対しても優しい社会づくりが求められる時代で、その機運づくりに貢献した。コロナ禍の2021年(令3)には、57年ぶりに東京で行われた五輪で聖火を運び、希望をともしてくれた。
長嶋さんは「野球というスポーツは人生そのものだ」という言葉を好んだ。その長嶋さんに感謝の気持ちを込めて、送りたい。「長嶋茂雄の人生は日本そのものだ」。【沢田啓太郎】