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【阪神】吉田義男さんの守備に衝撃「こりゃもうあかん」“ナニワの春団治”が忘れられないノック


吉田義男さんは阪神タイガースの名監督として、1985年に球団初の日本一を成し遂げた。91歳で他界した彼の思い出を、日刊スポーツは「吉田義男さんメモリーズ」シリーズで紹介。川藤幸三氏は吉田さんの人物や彼の影響力について深く語り、特に吉田さんの技術と指導力に敬意を表した。彼のリーダーシップはコミュニケーションとチームビルディングに優れたもので、選手が団結し、目標を達成する原動力となった。吉田監督は選手たちに優勝を口に出さずに「勝負は下駄を履くまでわからない」という姿勢を貫き、その慎重さが勝利に貢献。後継の岡田彰布監督も同様のアプローチを採用し、成功を収めた。

川藤幸三阪神OB会長(当時)と話しをする吉田義男さん(左)(2023年4月9日撮影)

<吉田義男さんメモリーズ11>

「今牛若丸」の異名を取った阪神の名遊撃手で、監督として1985年(昭60)に球団初の日本一を達成した吉田義男(よしだ・よしお)さんが2月3日、91歳の生涯を閉じました。日刊スポーツは吉田さんを悼み、00年の日刊スポーツ客員評論家就任以前から30年を超える付き合いになる“吉田番”の寺尾編集委員が、知られざる素顔を明かす連載を「吉田義男さんメモリーズ」と題してお届けします。

   ◇   ◇   ◇

“春雨”が降り注いだ甲子園で、新生阪神の中日戦を見ていた前OB会長の川藤幸三さんが「なんやかんや言うてもよっさんとの思い出はありすぎるほどあるわいな」と故人をしのんだ。

福井の古豪・若狭高から投手兼外野で阪神入りした川藤さんは、担当スカウトだった河西俊雄さんから「お前は手も体も小さい。ピッチャーは無理やがバネがある」とショートに回された。

プロ1年目の1968年(昭43)、吉田さんはプレーヤーとして晩年を迎えていた。同じ遊撃手の藤田平さんと3人でノックを受けたときの衝撃は忘れることができない。

「吉田さんの守備を側でみた瞬間に『こりゃもうあかん』と思ったな。あっちはプロ中のプロ、こっちは草野球やがな。吉田さんは次の年(69年)からコーチ兼任になるんやけど、ゴロを捕ってから速いこというたら、わしが百万本ノックを受けてもあかんと思ったわいな」

吉田さんは、後輩の川藤さんに自分が使いこなしていたグラプをプレゼントしたが、それを左手ではめたときもショッキングだった。

「吉田さんのグラブは芯がどこにあるかわからんのや。言い方を変えると、どこにでも芯があった。普通は捕球するグラブの芯いうのは1つなんやが、芯がいくつもある。つまり芯だらけなんや。どこの芯でも捕って、そして捕ると同時に投げてる。あんなショートおらんわな」

吉田さんが率いて、21年ぶりのセ・リーグ制覇、日本一を果たした85年のメンバーは個性派がそろっていた。“ナニワの春団治”といわれて代打業で名を売った川藤さんは「きれいに言えば個性派やが、手に負えんような選手ばっかりやったな」と笑った。

その年の吉田監督は、本懐を遂げるまで「優勝」の2文字を口にすることはなかった。川藤さんは守備走塁コーチだった一枝修平さんから「首脳陣と選手の間のパイプ役をやってくれんか」と頼まれた。

「なんでも言いたいことを助言してもいいいうことやったから、首脳陣に『なんで監督は絶対に優勝すると言わんのですか!』と文句言うたんや。十中八九間違いないのに優勝とは言わんかった。あれで優勝できんかったらボロカスたたかれたやろな」

リーダーにすれば“勝負は下駄を履くまでわからない”というように、一瞬でもスキを見せたくなかったはずで、選手としては優勝を公言して勢いに乗りたかった。ただ23年に日本一になった岡田彰布監督も「優勝」を封印し、“アレ”に徹したのは記憶に新しい。

最近「note」から自身の記事を発信している川藤さんは「監督の立場になったら、やっぱり簡単に優勝とは言えんのやろなぁ。でもあんなに言い放題の強烈なチームやったけど、最後は一丸になった。だから勝った」とチーム形成の難しさをなつかしんだ。【寺尾博和】

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