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龍谷大平安の原田英彦監督が退任 部員に強めの指導で自宅待機中、処分出る前に責任取る形で決断


龍谷大平安(京都)の原田英彦監督が、部員への強い指導を理由に退任したことが明らかになった。原田監督は自身が指導している現役部員を反省させる目的で厳しい指導を行っていたが、それが原因で学校から自宅待機を命じられていた。退任は、日本学生野球協会の審査が学校の独自調査により見送られる中で、責任を取る形となった。原田監督は母校の復興に努め、特に2014年には学校をセンバツ優勝に導いた実績を持つ。教え子には多くのプロ選手が含まれ、彼の指導スタイルは賛否両論を呼んだが、野球への情熱と母校への深い愛情は終始変わらなかった。

龍谷大平安の原田英彦監督(2024年10月撮影)

龍谷大平安(京都)を春夏通じて19度の甲子園出場に導き、14年センバツを制した原田英彦監督(64)が退任したことが4日、分かった。

現役部員に反省を促すために強めの指導をした影響で、学校に2月中旬から自宅待機を命じられていた。4日に開かれる日本学生野球協会の審査室会議で諮られる見通しだったが、学校が独自で設置した調査委員会でより詳細に調査を行うことになったため、処分申請は一時見送ることに。ただ、処分が出る前に責任を取る形で退任を決断した。

平安OBの原田監督は同校卒業後、社会人野球の日本新薬で強打の外野手、一塁手として都市対抗などで活躍。引退後、93年秋に33歳で母校の監督に就任した。低迷し、部員不足にも苦しんでいた母校の状況に61個の課題を見いだし、後輩にあたる部員たちに技術指導の他、礼儀作法、グラウンド整備、道具の扱いや丁寧なキャッチボールのやり方などを1つ1つ教え、課題をつぶしていった。

95年夏の京都大会ではエース斉藤和巳(元ソフトバンク)を擁する南京都(現京都広学館)に初戦で敗れ、落胆した一部の平安ファンらに1年生エースの川口知哉(元オリックス)らが球場外で囲まれる出来事もあった。だが2年後の夏、名実ともに大黒柱に成長した川口らと甲子園の決勝に41年ぶりに進出。智弁和歌山に敗れて準優勝に終わったが、名門復活を全国に印象づけた。

14年春は2年生エース高橋奎二(ヤクルト)を擁し、センバツを制覇。初めて紫紺の大旗を学校に持ち帰った。

舞台鑑賞や日本新薬時代に始めたフラワーアレンジメントなど、多彩な趣味を持つ指導者だった。ただ、何をしていても部員の上達を願い、より良い指導に生かせないかを模索していた。そういった情熱あふれる指導から、現在は母校でコーチを務める川口や広島赤松コーチ、西武炭谷、楽天酒居らがプロに進んだ。

野球を愛し、母校に深い思い入れを持つ選手をどうすれば育てられるのかを常に考えていた指導者が、行き過ぎた指導が原因で、愛してやまないHEIANのユニホームを志半ばで脱いだ。

◆原田英彦(はらだ・ひでひこ)1960年(昭35)5月19日生まれ、京都市出身。平安から社会人の日本新薬へ。強打の外野手、一塁手として都市対抗でも活躍。チームの主将も務めた。引退後、営業職になるも93年に監督に就任。97年夏はエース川口知哉(元オリックス)を擁して準優勝。14年春は学校初のセンバツ制覇。教え子に広島赤松コーチ、西武炭谷、ヤクルト高橋、楽天酒居らがいる。家族は夫人と1男2女。

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