
今回はドジャースの来日の歴史をご紹介しましょう。メジャーリーグはキャンプたけなわとなり、ドジャース大谷翔平投手もオープン戦に初出場。いよいよ、3月18日の日本開幕戦へ向けて実戦モードに突入しました。
日本でも圧倒的な人気を誇るドジャースは、これまで3度来日しています。最初は1955年ワールドシリーズで宿敵ヤンキースを破り、初の世界一に輝いた翌年のこと。まだニューヨークのブルックリンに本拠地があった時代、ウォルト・オルストン監督率いるチームが初めて日本にやって来ました。
50年代はまさにドジャースの黄金時代でした。作家ロジャー・カーンの名著から「ザ・ボーイズ・オブ・サマー」と呼ばれたギル・ホッジス、デューク・スナイダー、ジャッキー・ロビンソン、ロイ・キャンパネラといった主力選手たちがこぞって来日しました。
その中でも、特に日本のファンに強烈な印象を与えたのが、黒人大リーガー第1号で4番を打っていたジャッキー・ロビンソン。10月19日に東京後楽園球場で行われた巨人との第1戦。外野席で観戦していた私の恩師、伊東一雄氏によると、左翼ポールを巻く場外ホームランを打ったと言います。
さらに続く5番ホッジスが左中間はるか場外への超特大ホームラン。伊東さんの話によると、まるで「B-29がゆっくりと飛び去るように超えた」と言います。「すぐに打球の落下地点に行ってジェットコースターのあたりを見回したが、どこに消えたかわからない」という、「後楽園史上最長ホームラン」として語り草になっています。
しかし、当時37歳だったロビンソンは帰国後、非情にもジャイアンツへのトレードを通告されました。そして、非常に悩んだ挙げ句、翌年1月に「ドジャースこそわが命。他球団でプレーするくらいなら引退する」と涙ながらに現役引退を決意。日米野球が、現役最後のプレーとなりました。
それから10年後、66年にドジャースが2度目の来日。その時も、65年球団史上4度目の世界一に輝いた翌年のことでした。当時はロサンゼルスに本拠地を移し、機動力を駆使した「ゴーゴーベースボール」で一世を風靡(ふうび)。62年に、当時の大リーグ記録だった104盗塁した韋駄天(いだてん)モーリー・ウイルスらがいました。
しかし、球団史上最高の投手と言われる左腕サンディ・コーファックスは27勝するなど投手3冠に輝き、2年連続3度目のサイ・ヤング賞を受賞したにもかかわらず、シーズン終了後に左肘関節炎のために30歳の若さで現役引退を表明。残念ながら、日本で勇姿を見ることはできませんでした。
それからしばらくして、93年に恒例の日米野球でなく台湾へ行く途中、福岡に立ち寄り、福岡ドーム開業記念として巨人・ダイエー連合軍と親善野球を2試合行いました。当時はトム・ラソーダ監督のもと、88年ワールドシリーズMVPとなり、サイ・ヤング賞にも輝いたエースのオーレル・ハーシュハイザーがいました。他にもラモンとペドロのマルティネス兄弟、その年ナ・リーグ新人王に輝いたマイク・ピアザ捕手ら、多くの注目選手がいました。それに対し、巨人はプロ1年目の松井秀喜外野手が人気を集め、初戦で先発のハーシュハイザーからレフト方向へ適時二塁打を放ちました。
今回はそれ以来、実に32年ぶり4度目の来日となります。これまでの日米親善野球と違い、日本開幕戦を行うために訪日。しかも、前年世界一に輝いたチームの一員として大谷に山本由伸、さらに今年ドジャースと契約した佐々木朗希と、侍トリオがそろい踏みです。ドジャース初来日から70年、メジャーの歴史をつくったロビンソンから大谷へと伝統が受け継がれます。
【大リーグ研究家・福島良一】(ニッカンスポーツ・コム/MLBコラム「福島良一の大リーグIt's showtime!」)