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<吉田義男さんメモリーズ5>
「今牛若丸」の異名を取った阪神の名遊撃手で、監督として1985年(昭60)に球団初の日本一を達成した吉田義男(よしだ・よしお)さんが2月3日、91歳の生涯を閉じました。日刊スポーツは吉田さんを悼み、00年の日刊スポーツ客員評論家就任以前から30年を超える付き合いになる“吉田番”の寺尾編集委員が、知られざる素顔を明かす連載を「吉田義男さんメモリーズ」と題してお届けします。
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フランスも泣いた。吉田さんの訃報に南フランスアカデミーでは黙とうがささげられた。子供たちは直接指導を受けたことがない。だが、監督、コーチらから、いかにフランス野球に貢献した人物だったかを教えられてきた。
現地ジャーナリストは「日本プロ野球の象徴的な選手兼監督だった」とし、「偉大なる武将、源義経の幼少時のあだ名だった“牛若丸”と呼ばれた男」と長文の記事で異国での功績をたたえた。
吉田さんは、時代が「昭和」から「平成」に変わった1989年から95年まで7シーズン、フランスで野球を教えた実績の持ち主だ。ナショナルチーム代表監督として、欧州から五輪出場を目指した。
阪神で指揮をとった85年のリーグ優勝、日本一は社会現象になった。「天国でしたわ。ふふっ」。頂点に上り詰めた初代日本一監督だが、2年後の87年は急展開の最下位に転落し、まさに地獄に落ちた。
批判にさらされ、地位も名声も引き裂かれた思いだった。88年に篤子夫人と出かけた旅先で、当時日立フランス社長だった浦田良一さんから、フランスで野球の指導を勧められたのを契機に海を渡った。
最初から選手が集合時間にそろわない状況に「日本で経験したことがないことばかりでショックの連続でしたわ」と手を焼いた。
薄暗い照明設備、ガタガタのグラウンド、ユニホームの上下はそろわず、帽子もバラバラ、足元はスニーカーだった。送りバントを教えると「他の人間のためにアウトになるのは嫌です」とソッポを向かれた。
「チームワーク」の意味、「自己犠牲」の必要性などを浸透させるのには時間がかかった。精神論も言い聞かせた。プロフェッショナルの吉田さんが素人同然を懸命に指導する姿は奇異に映ったことだろう。
だが吉田さんは「こちらの言うことを選手が理解すると笑うようになったのはうれしかったですわ」と着実に野球が根付くプロセスを肌で感じる。そして日本で打ちひしがれた心の傷は、フランス人たちの必死さに癒やされた。
「それまで走らなかったのに、試合に負けると悔しがって涙をこぼすようになったんです。わたしは野球を教えにいったけど、逆に教えられた気がするんですわ」
仏代表監督として五輪出場は実現しなかったが、21年東京五輪の野球ソフトボール復活に尽力した。現地では国際大会「吉田チャレンジ」を開催してきた。日本から都市対抗大会で初優勝した西濃運輸、侍ジャパン社会人野球代表も参加した。約30カ国・地域で指導した国際派野球人。“第2の故郷”と言ってはばからなかったパリでは、本人の遺志を受け継いで27年に「吉田チャレンジ」を開催する方向だという。【寺尾博和】