
85年の日本一メンバーが、3日に亡くなった吉田義男氏を悼んだ。1番打者として強力打線をけん引した真弓明信氏(71=日刊スポーツ評論家)はコンバートの思い出を振り返り、胴上げ投手になった中西清起氏(62)は恩師の大胆起用を語った。
◇ ◇ ◇
▽真弓明信氏(吉田監督の下で1番打者として強力打線をけん引し85年日本一) 最近顔を見ていなかったから、心配はしていた。それでも元気だったから、ショックだよ。
85年に、監督を胴上げしたのは、今も鮮明に覚えている。その中でも一番の思い出に残っているのは、コンバートを言われた時だ。前の年は二塁を守っていたが、(監督に)就任した時に「外野をやってくれ」とね。自分の中では膝も悪くなっていたし、二つ返事だったけど、こんな条件をつけてね。「内野でケガ人が出たから戻れと言われても、すぐに戻れませんよ。そういう覚悟でなければ、行きたくない」。その後、優勝の話になると、「真弓がコンバートをOKしてくれたから」とよく話してくれた。よく印象に残っているよ。
攻撃か守りかというと攻撃型の監督だった。85年は俺が1番、2番は弘田(澄男)さん。「エンドランのチャンスがあれば、サインを出し合えよ」と言われていた。当時はベテランが多かったが、選手を信じて使っている。そう感じた。走者を送るところはバントで送って、1点を取りにいくという手堅い野球もやっていたけどね。(09年に)監督になった時には「自分の色を出して思い切ってやれ」と何度も励まされたよ。
ちょうど監督とは20歳違う。去年は一緒に回れなかったけど、ゴルフを元気にされていた。90歳になってもゴルフができる。そういう年の取り方をしたい、という俺たちの目標だった。本当に残念。タイガースの一番の貢献者だ。
▽阪神掛布雅之OB会長(吉田監督の下で85年に日本一) 自分の野球人生に、ぽっかりと大きな穴が開いてしまった感じです。入団2年目に、吉田監督に三塁のレギュラーにしてもらいました。日本一になった1985年に『ウチには日本一の4番バッターがいる』と言ってもらえたのは、最高の名誉で、うれしい言葉でした。殿堂入りの報告を直接することはかなわなかったけど、少しは恩返しできたかもしれない。本当にありがとうございました。
▽木戸克彦球団本部プロスカウト部長(85年にレギュラー捕手に抜てき) 年末から入院されていたのは知っていたが、また元気に出てきてくれると思っていた。もっとたくさん会っておけばと思う。私にとってはいつまでも監督。プロ入りから2年間、腰を壊して何もできなかったが、3年目の85年に、抜てきしてもらった。「本当に俺かよ」と思ったが、あれだけ使ってくれた。感謝しかない。今の私があるのも吉田さんのおかげだ。
とにかく負けん気が強く、リード面でも引っ張ってもらった。「もう1本打たれてこい」「向かっていけ」とよく言われたよ。弱気になりそうなところで、そういう言葉が多かった。ずっと(相手に)やられることを嫌う人だった。日本シリーズの優勝は、忘れられない。ずっとあの頃のままならいいなと思っていたよ。
遠征先では、平田さん、吉竹と3人で毎日朝練を課せられた。レギュラーだよ、と思っていたが、「行ってこい!」とね。気を引き締められたし、あとで考えるとタメになった。夕食を食べると、すぐにバッテリーミーティングに野手ミーティング。しんどかったが、無我夢中の1年を過ごさせてくれた。残念でならないよ。
▽阪神前監督の岡田彰布オーナー付顧問 このたびの訃報に心よりお悔やみ申し上げます。吉田さんとは野球はもちろん、プライベートを含めて長いお付き合いをさせていただきました。私にとっての恩人です。一番の思い出は、やはり1985年の日本一です。若くて夢中でプレーしていた私たちを引っ張っていただきました。昨年12月に入院されるまで、元気にゴルフをされていましたし、『退院したら食事に行きましょう』と話していたのですが…。寂しい気持ちでいっぱいです。あらためて感謝の意を表するとともに、心よりご冥福をお祈りいたします。