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阪神淡路大震災から30年 現場取材で痛感した“甲子園の奇跡”/寺尾で候


1995年の阪神淡路大震災から30年が経過し、その日を振り返る記事。震災はマグニチュード7.3の規模で、JR西日本や阪急、阪神といった交通インフラに壊滅的な打撃を与えたが、甲子園球場は被害を免れたことが語られている。大林組の迅速な工事により1924年に完成した甲子園は、震災の衝撃にも耐えうる堅牢さを見せた。球場長や高野連の関係者はその無事に安心し、当時の阪神電鉄幹部もその技術力を称賛する。一方、被災地からの報道に関する考察や、アナウンサーとしての責務についても触れている。震災による被害とその後の復興、そしてその中での甲子園球場の存在が、多くの人々にとって希望の象徴であったことを再認識させる内容。

甲子園球場

<寺尾で候>

日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

   ◇   ◇   ◇

阪神淡路大震災から30年がたった17日、地震発生の午前5時46分は阪急電車に揺られていた。車内にあったいつもと同じ日常の光景に“平和”を感じる。

神戸・三宮に到着した6時過ぎ、空が白々と明け始めた。そのままフラワーロードをたどっていくと右手に神戸市役所が見えてくる。その隣にある東遊園地で開催された「阪神淡路大震災 1・17のつどい」に灯籠が並べられ、犠牲者を追悼する大勢の人々とすれ違った。

ABC(朝日放送)ラジオの人気番組「おはようパーソナリティ古川昌希です」は大阪市内のスタジオを飛び出し、被災地・三宮からの生放送だった。当時小学2年生だった古川少年は、大阪市内にある6階建てマンションの4階で、両親、弟と4人が和室で就寝中だった。母親の「地震や!」という叫び声で飛び起きた。

「まるで箱の中に入れられて揺さぶられているかのような揺れでした。あんなに激しかったのに震度4だったのかと、後々知って恐ろしくなりました」

今は売れっ子アナウンサーになった古川だが、いざその場に置かれたときの“伝え手”としての難しさを考えると打ち明けた。

「まったく想定されていなかった災害が起きたときに、迷いなく命を守る呼びかけができるだろうかと自問自答する日々です。今日もそんな思いになりました」

大都市機能を支えるインフラだったJR西日本、阪急、阪神は、マグニチュード7・3の大震災によって高架橋、駅舎の損壊が生じて壊滅的状態に陥った。

現場取材で痛感したのは“甲子園の奇跡”だ。家屋、ビルの相次ぐ倒壊、大規模火災で甚大な被害をもたらしたばかりか、球場近くの阪神高速神戸線の高架までもが崩落した。

それなのに甲子園球場は悠然とそびえ立っているではないか。その無事に球場長だった竹田邦夫は安堵(あんど)した。また高野連の名物事務局長の田名部和裕は涙を流した。

大震災から30年の節目になった日、当時の阪神電鉄本社専務で、球団社長だった三好一彦と向き合った。

「アルプススタンドに亀裂が生じたり、配線に支障はきたしたが、ある意味、甲子園はびくともしなかった。あれほどの突貫工事だったのに、大林さんの技術はすごいと思いました」

1924年8月1日に開場した甲子園は日本を代表する大林組が手がけた末、わずか4カ月半で完成させた。取締役会長・大林剛郎も「よほど設計、施工がしっかりしていたのだと思います」という。

阪神キャンプ地の高知・安芸は、家族ごと受け入れると好意的だった。広域に電気、ガス、水道、電話などライフラインはストップ。賛否が渦巻いたが、最終的には全員がキャンプインした。当時は決して口にできなかったのだろうが、自宅もムチャクチャで、ホテル暮らしを強いられた三好は「本当に苦しかった」ともらした。

「最初に職員、チームの安否確認ができたときはホッとしました。所帯持ちだけにはキャンプ休日の一時帰阪を認めました。オープン戦で優勝するわけですが、準備不足は明らかで、オープン戦がキャンプのような感じだった。阪神グループにとって未曽有の出来事でした」

新時代に突入する甲子園に立ち寄った。今も変わらず、その姿は勇ましくみえた。(敬称略)

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