神髄は「気迫」にあり! 「がんばろう神戸」の95年を始め、オリックス時代から長くイチロー氏を取材してきた高原寿夫編集委員が、殿堂入りを機に当時の打撃コーチで野球解説を務める新井宏昌氏から“秘話”を聞いた。イチロー氏がここまでの存在になった底流に流れるものとは-。
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「1・17」から30年。その節目に殿堂入りのタイミングが来ることが、ある意味、イチローの宿命なのかもしれない。今も昔もクールな印象だが「がんばろう神戸」の95年はファンのために泣くのを見た。
あと1勝すれば地元での胴上げが決まる神戸での4連戦でオリックスは4連敗。そのときイチローは目深にかぶったキャップの奥で瞳をぬらしながら「神戸で決められずに申し訳ない…」と絞り出した。
「野球でスポーツで夢を与えるなんておこがましい。だって野球に興味のない人はそんなことを思わないでしょう」。そう話したこともあるが、球団と市民との本当の意味での一体感を醸成したあのシーズンを通じ、神戸への思いは強い。
日米で残した大記録。当時も今も線の細いイチローがこれほどの選手になったことについて、理由は数多くあるだろうが、並外れた「気迫」も欠かせない大きな要素だ。
オリックス時代の打撃コーチで「これほどの打者の登録名が“鈴木”ではちょっと…」と当時の指揮官・仰木彬に進言して「イチロー」の発案者となった新井宏昌から最近、こんな話を聞いた。
「死球を受けると、次の打席でイチローはそれまで以上に踏み込んでいっていた。打者は誰でも頭ではそう思うけれど体が勝手に腰を引いてしまう。しかしイチローは違っていた。負けるか! という気持ちが全身から出ていたね」
復興の象徴としてオリックスがパ・リーグを制した95年、イチローは18個の死球を受けている。シーズン18個はNPBの年間死球記録で15位タイ。日本の9年間で59個、19年間プレーしたメジャーで55個の死球を記録しているが95年のそれは最多だった。
当時、冗談交じりとはいえ「打たれるより(死球を)当てる方がマシ」と話していた他球団の幹部がいたことを知っている。リスペクトを込めた印象にも聞こえたがプロの厳しさに震えるような気もしたものだ。
オリックスが大勝リードしていた当時のある試合。8回に打席がまわるイチローに代打を出そうと仰木が動いた。相手のマウンドには制球難の敗戦処理投手がいる。「当てられて、ケガでもしたらかなわん。イチローに代打と言え」。その指示を伝えに向かった新井にイチローは言った。
「え? いきますよ」。“指示拒否”に困った新井は仰木の元に戻り「打ちたいそうですわ」と返す。「なんでや? ホンマに。アイツは…」。困惑する仰木の眼前でイチローは快音を放っていた。
「打席に立って、投手と対戦することが心の底から好きなんでしょう。知る限り、あんな選手はいなかった。まあ普通じゃないよね(笑い)。だからこそ、あそこまでの存在になったのでは」。新井はそう振り返った。
殿堂入りした今月、大リーグでの日米同時殿堂入りも確実視される。イチローはこの日、殿堂入りに関して「多くの人が常識だと思っていることを疑い、大事な決断は自らしてきました」とコメントした。その原点は、歯を食いしばり戦った「がんばろう神戸」のシーズンだと今も思っている。(敬称略)【編集委員・高原寿夫】