<猛虎のルーツ>
阪神ナインの原点、足跡をたどる「猛虎のルーツ」。今回は前川右京外野手(21)に迫ります。
今季初めて1軍でシーズンを完走し、出場116試合で打率2割6分9厘、4本塁打の成績を残しました。高卒3年目で1軍定着を果たした要因は智弁学園(奈良)時代に培った闘争心。恩師の小坂将商監督(47)が「熱い男」との3年間を振り返りました。【取材・構成=山崎健太】
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小坂監督は智弁学園入学直後の前川の姿に仰天した。「(入学前に)初めて見た時はまだ線が細かった。『しっかり鍛えてこいよ』って言ったら、初練習の時にとんでもない体になってたんですよ。『めっちゃゴツなってるやん』って。びっくりしましたもん」。
三重・津市から親元を離れての野球留学。当時15歳の前川からは強い闘争心がうかがえた。「入学からのみ込みも早いし意識も高かった。『絶対にプロに行くんや』っていう気持ちはもう持っていましたね」。
入学当時は投手での育成も考えていたという。「はじめは投手をやらせたかったんですよ。でも本人は『投手はやりません。打者一本でいきます』と言いよったんです」。打者へのこだわりは、すぐに自らの打棒で証明した。入学直後の打撃練習で、いきなり約30メートルほどの高い右翼ネットの上段に突き刺してみせた。「入学直後の1年生が打つ打球じゃなかったですね。この子を打者として育てようと思いました」。豪快な打球で腹は決まった。
その言葉通り、前川を1年春からベンチ入りさせ、夏は4番レフトで起用した。7学年上の巨人・岡本和ですら経験しなかった「夏の1年生4番」。プレッシャーをはねのけるべく、全体練習後の寮でも黙々と素振りを繰り返していたという。誰よりもバットを振ってきた成果は大舞台で証明した。甲子園で2安打3打点。強い闘争心が生んだ結果だった。
小坂監督によると、岡本和と前川は「入学当時の飛距離は同じくらい」。高校時代の岡本より前川が優れていたところを聞くと「やっぱり闘争心じゃないですか」と即答した。
それは時に「もろ刃の剣」にもなった。「岡本はセンバツでバックスクリーン放り込んだから、お前も打て言うたら空回りしよったんですよ」。前川は3年春のセンバツに出場。明豊(大分)との準々決勝では相手の継投策に大苦戦した。再三のチャンスで凡退して無安打。敗戦後は人目もはばからず、悔し涙を流した。「日本一を本気で目指した中で自分の打撃が全くできなかった。相当悔しかったと思いますよ」。
春の借りを返すべく臨んだ最後の夏は甲子園で準優勝。2本塁打を放つ大車輪の活躍だった。そして、プロ志望届を提出。阪神からドラフト4位指名を受け、指揮官も「本当によかった」と胸をなでおろした。
岡本和という偉大な先輩に憧れた15歳の青年が、今度は憧れを抱かれる存在になりつつある。「右なら岡本、左なら右京に憧れる子が増えてるんじゃないですか」。来季も闘争心むき出しのプレーで、後輩たちの道しるべになる。
◆前川と甲子園 智弁学園1年夏の初戦、八戸学院光星(青森)戦に「4番左翼」で甲子園デビュー。適時打2本で3打点を挙げたが、8-10の打ち合いで敗れた。大会には兄夏輝も津田学園(三重)の4番で出場して話題になった。20年春は新型コロナで大会中止。同年夏は交流試合(中京大中京戦、3-4)で再び甲子園の土を踏んだ。3年春は3番で3試合に出場して10打数2安打。3年夏は1番や3番を任され、22打数10安打の打率4割5分5厘、甲子園初アーチを含む2本塁打、7打点と大活躍し、準優勝に貢献した。交流試合を除くと3大会で通算10試合に出場した。
◆小坂将商(こさか・まさあき)1977年(昭52)7月23日生まれ、和歌山県出身。智弁学園で主将を務め、3年夏に屈指の強打者として甲子園4強。法大から松下電器(現パナソニック)に進んだ。05年に智弁学園のコーチ就任し、06年4月から監督。16年センバツで村上頌樹(阪神)を擁し、春夏通じて初の甲子園制覇に導いた。21年夏の決勝は智弁和歌山との「兄弟校対決」で準優勝。甲子園出場は春7度(中止の20年含む)、夏9度で通算27勝14敗。