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【水戸】レジェンドGK本間幸司の引退発表に寄せて 34年交流がある元サッカー担当記者が取材


本間はカズから贈られたユニホームを持ち、感謝を口にした

今シーズン限りでの現役引退を発表したJ2水戸ホーリーホックのGK本間幸司(47)が9月30日、茨城・水戸市内のホテルで引退発表会見を行った。

水戸で26年間プレーし、現時点でJ2歴代最多の通算576試合に出場したレジェンドの節目の会見を、34年にわたり交流がある元記者が取材した。

 ◇   ◇   ◇

9月24日午後9時前、スマホが鳴っていた。着信に気付かず、不在表示を見ると「本間幸司 水戸」の文字が浮かび上がっていた。近年、シーズン終盤またはシーズン終了後に電話が鳴り、本間の現状の思いを聞き、せんえつながら私の個人的な気持ちを伝えたりしていた。ただ、今回の電話は9月下旬。タイミング的に早い。ついに、その時が来たのか-。覚悟を決め、こちらから電話をかけ直すと、本間は単刀直入に切り出してきた。

「今季限りで現役引退することを決めました。明日、発表されます。先にお伝えしたいと思ってお電話しました」

義理堅く、人情味あふれる本間らしい配慮だった。とは言え、シーズンはまだ残っている。「お疲れさま」という言葉はまだ早いだろうか、「まずは最後まで頑張れ」が正しいのか…頭を回転させながら、絞り出した言葉は「お疲れさま。自分で最後を決められる選手はひと握り。本当に素晴らしいと思う。ラスト5試合、サッカー選手本間幸司として全力で頑張ってください」。何とも、まとまりに欠けたものだった。

本間と出会ったのは約34年前、私が中学2年の春だった。茨城県の日立市立多賀中学校に入学し、サッカー部に入部してきた1学年下の本間は、事前のうわさ通りの「怪物」だった。私とポジションは同じGK。ひと目見て、GKとしての能力ではかなわないと悟り、凡人でも何とか勝負できそうなコーチングや基礎技術をみがくしかないと決意した記憶がある。

私生活はやんちゃそのもの。ただ、正義感と愛嬌(あいきょう)があり、憎めない男だった。そんな本間が高校卒業と同時に浦和レッズに入団。その後の不遇の3年間を経て、当時JFLの水戸に加入したのは、今思えば運命だったのだろう。

私はスポーツ紙のサッカー記者になり、現場で会ったり、東日本大震災や本間の節目、節目に取材をしてきた。日本代表でも、J1優勝争いをするクラブ所属の選手でもない。サッカー好きじゃないと知らない選手かもしれない。ただ、「中学のサッカー部の先輩後輩」という関係以上に魅力的な選手だったからこそ、機を見て話を聞きに向かったのだと思う。

実際、水戸を経由して飛躍した数々の選手、例えば元日本代表DF闘莉王、川崎FのFW小林悠、ベルギー1部シントトロイデンMF伊藤涼太郎らが、いまだに本間を慕っている。それが「プロサッカー選手本間幸司」の魅力を物語っている。

9月30日、水戸市内での引退発表会見で、本間はプロサッカー選手としての29年間(浦和3年、水戸26年)の歩みを振り返っていた。J2通算出場数576試合は歴代最多。J1を含むJリーグ通算出場試合数でも6位にランクされる。「29年(うち1年はJFL時代の水戸)も現役をして、トップリーグ(J1)で1試合も出ていない人はなかなかいないと思う」と話したように、「夢」と形容したJ1には届かなかったが、レジェンドと言って過言ではない数字を残した。

水戸というクラブだけでなく、地元茨城と歩んできた。99年4月に当時JFL水戸に移籍。練習場は土のグラウンドで、野球のマウンドの盛り上がりもあった。練習後にはグラウンド脇の水道で体を洗った。そんな苦しい環境でも前を向いた。移籍から半年後には東海村で原発の臨界事故が発生した。前日は原発のそばで練習していたこともあり、「本当に大丈夫なのか」と不安にさいなまれたこともあった。

2011年3月11日に発生した東日本大震災も忘れられない。「ちょうど練習開始30分くらい前にストレッチをしていたら大きな揺れがあった。当時の監督の柱谷(哲二)さんはご存じのように闘将と言われた方で、翌々日くらいに試合が予定されていたので、『もしかしたら試合があるのかも』ということで余震の中、怖い思いをして練習した。練習の帰り道、(街並みや道路を見て)とんでもない事態が起きたと理解できた」。自身も被災したが、地元の被災者を勇気づけるため、いち早く避難所を回る活動を始めた。

東北の被災地の状況と比べられ、「忘れられた被災地」とも言われた茨城県の被害状況も悲惨なものだった。当初は知人から「原発事故の影響もあるし、茨城を離れた方がいい」と助言を受けたこともあった。だが、「僕は日立育ちで長らく水戸に住んでいる。妻も地元の人間だし、ここに家がある。僕だけ逃げるわけにはいかない。地元の方々と歩まないといけない」という強い思いで、率先して復興に動いた。

そして訪れた2011年4月23日。震災の影響で屋根からの落下物の可能性があるとの理由でメインスタンドには観客を入れない措置がとられたケーズデンキスタジアムで、震災後初戦を迎えた。相手は徳島。前半に失点を喫したが、後半追加時間に鮮やかな逆転勝利。「サッカーの神様は見ているじゃないけど、(2〇1で)逆転勝利をして、実力ではない何かが、神がかったゲームでもあったので印象深いですね」。試合後、サポーターから涙ながらに送られたエールも記憶に刻まれていた。

水戸ホーリーホックを愛し、水戸ホーリーホックに愛された。水戸のサポーターを愛し、サポーターに愛された男は、会見でサポーターへのメッセージを問われ、まずは謝罪から入るという、らしさを見せた。

本間 サポーターにまず言いたいのは、一昨日の試合(9月28日のアウェー鹿児島戦)は本当に申し訳ありませんでした。あんな情けない試合をしてしまって。僕も先週のアタマにみんなに引退することを伝えさせてもらったんですけど、サッカーに全集中できてなかったので、そういう雰囲気がチームに伝わってしまったのかなと反省しております。この会見を機に、本間幸司、サッカー選手として最後の試合まで引退のことは頭から除いて、全力でもう1回ネジを巻き直してプレーしたい。サポーターと「良い1年だった」と言えるように残り5試合やっていくことを約束したい。

「ピッチ上でプレーでチームに貢献する」というプロサッカー選手としての誇りを47歳になっても人一倍、胸に秘めている。もちろん、出場機会が激減したここ数年間はプレー以外でもチームへの貢献を考えてきたが、現役生活も残る公式戦は5試合。チームファーストを思いながらも、「もう1回、このチームで試合に出たいという思いがあり、最高のパフォーマンスをサポーターの前でして終わることができればと。そのような場が来るか分からないけど、そうじゃなくてももう1回過去最高の自分をこの1カ月で最終節までにしっかり作っていきたいなと思います」と試合出場というプロ選手としてのこだわりを追い求める。

会見直前、交流があるJFLアトレチコ鈴鹿のFWカズから背番号11のユニホームが贈られてきた。「数年前、(元水戸で現J3YS横浜の)中里崇宏を介して会わせてもらった。試合に出られない苦しい時にカズさんのサッカーへの純粋な思いに触れて、当時、僕の中の心の炎が大きくなりました。諦めてはなかったけど、もう1回本気でつかみにいこうというか、サッカーに対する本気度がまだまだ甘いと感じました」。限られた現役生活。あの日「KING」から受けた刺激も思い出し、もう1度ゴール前の定位置をつかみにいくだろう。私も「プロサッカー選手本間幸司」のこだわりに期待したいと思う。【元サッカー担当・菅家大輔】

◆本間幸司(ほんま・こうじ)1977年(昭52)4月27日、茨城県日立市出身。日立市立多賀中、水戸短大付(現水戸啓明)高を経て96年に浦和レッズに入団。公式戦出場機会がないまま、99年4月に当時JFLの水戸に完全移籍。レギュラーを獲得して同年にチームをJ2昇格に導いた。16年にはJ2通算550試合出場を達成。現時点でJ2歴代最多の通算576試合出場。J1を含むJリーグ通算出場試合数でも6位にランクされる。天皇杯などを含む公式戦出場数は通算632試合に達している。身長185センチ、84キロ。

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