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ベーブ・ルース、最後のユニホームはドジャースだった 監督夢見続けコーチ就任も結局実現せず


ドジャース大谷翔平が出場したヤンキースタジアムでのヤンキース戦(撮影・藤尾明華)

ルースがドジャースに在籍していたのをご存じですか? 今年のワールドシリーズ前哨戦との呼び声も高い伝統の一戦、ヤンキース-ドジャース3連戦が行われました。その舞台となったのは、ニューヨークのヤンキースタジアム。かつて「ルースが建てた家」と呼ばれた旧球場の伝統を受け継ぐヤンキースの本拠地球場で、8年ぶりに東西の名門球団が激突。全米中の野球ファンを熱狂させました。

さて、アメリカ野球史上最大のヒーロー、ベーブ・ルースと言えば、1914年レッドソックスに投手として入団。後に投打の二刀流で活躍し、20年ヤンキース移籍後に打者専念。ホームランバッターとして不動の地位を築きました。その偉大なルースが、ドジャースにも在籍したことはあまり知られていません。

1930年代、メジャーリーグは大恐慌の影響で観客動員数が減少。それにより経営不振に陥り、打開のために33年に史上初のオールスターゲームを開催。36年には野球殿堂入りの導入など、さまざまな試みを行いました。各球団もファンを集めるために、野球以外の事業にも手を出すようになりました。

中でも、35年に当時レッズのラリー・マクフェイルGMは、史上初のナイトゲームを開催。観客数が大幅に伸びて、チームを危機から救いました。また、ラジオという電波媒体を通じてファン層を広げて行くことに成功。ラジオが新たなファンを開拓し、不況を乗り越えて行きました。

マクフェイルは経営手腕を買われて、38年当時ニューヨークのブルックリンに本拠地があったドジャースの球団社長に就任しました。人気拡大のため打った手が、ルースの獲得でした。ルースは34年の日米野球から帰国後、突然の解雇通告で傷心のままヤンキースを去り、翌年ブレーブスに「監督になれる」という不確かな約束につられて移籍していました。しかし、夢である監督に就任できず、現役を引退していました。

そして、38年6月15日に本拠地エベッツフィールドで初ナイターを開催。その記念すべき初ナイターで、レッズの左腕ジョニー・バンダミーア投手にノーヒットノーランを喫しました。しかも、バンダミーアは、前の試合と合わせて2試合連続ノーヒットノーランという、唯一無二の快挙でした。ルースとコーチ契約をしたのは、その翌日。年俸は1万5000ドルでした。

ルースは同19日の日曜日、本拠地でカブスとのダブルヘッダーにコーチとしてデビューしました。ドジャースでは、おなじみの背番号「3」でなく35番のユニホームを着用。特に、地元ニューヨークで人気あるルースの存在で収入が増えることを望み、いわば客寄せの意味でグラウンドに一塁コーチとして立たせました。

ルース人気によって、ドジャースは8球団中7位と低迷しながらも、年間観客動員数66万3087人をマーク。前年に比べて20万人近くも増えて、ナ・リーグ各球団の平均より10万人近い観客動員に成功しました。そのためルースは来年こそドジャースで監督になれると思いましたが、マクフェイルGMは主将のレオ・ドローチャー遊撃手を選手兼任監督に任命。28年のヤンキース新人時代、大先輩のルースに散々からかわれたドローチャーは、仕返しとして、犬猿の仲になったルースをあっさりと放り出しました。

それ以降も48年に53歳で亡くなるまで、ルースは電話の脇で監督としての誘いが来るのを待っていたらしいですが、結局、連絡はなく、ユニホーム姿はドジャースが最後となりました。

わずか1年足らずという短い期間ではあったものの、元祖二刀流ルースと「現代のルース」ことドジャース大谷翔平投手が、同じユニホームを着るとは感慨深いものがあります。【大リーグ研究家・福島良一】(ニッカンスポーツ・コム/MLBコラム「福島良一の大リーグIt's showtime!」)

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