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「馬淵家」の志、日本の夢に=人生決めた寺内との出会い―水泳飛び込み・日中国交正常化50周年


 飛び込み界の名伯楽、馬淵崇英さん(58)が、蘇薇という中国名で20代半ばの青年だった1989年。東京・国立代々木競技場にあった水泳場で衝撃を受けた。  大会に臨む日本のジュニアトップ選手に落胆したのだ。飛び込み大国、中国でナショナルコーチの就任話が持ち上がるほど、既に確かな目があった。それだけに、準備運動の様子でさえ「近代的」な自国と比べると「ただやっているだけ」に映った。  「自分の選手を五輪に」という夢を目指す前に、「外を見ないと」と考えて88年に来日。中国の改革開放政策に基づき、留学を選ぶ周囲の若者に触発され、「言葉を覚えて、最低でも大学を卒業して帰る」という人生設計を立てた。  だから、当時の日本の現状に戸惑いつつ、当初は人ごと。考えを改めたのはJSS宝塚(兵庫県宝塚市)のコーチ、馬淵かの子さん(84)と出会ったからだ。  かの子さんは、現役だった74年アジア大会の女子板飛び込みで連覇を目指したが、3位に終わった。上位2人は、台湾問題を背景に長く国際主要大会に出てこなかった中国勢。引退の花道と考えた舞台での苦い経験が、崇英さんを熱心に勧誘する原動力になった。  崇英さんは留学先の大学、住居の確保などの支援を受けてコーチ業を始めた。最初は日本選手の育成に自信を持てず、楽しみも見いだせなかったものの、寺内健(ミキハウス)と巡り合うと一変。飛び込みを体験する姿を見るなり、姿勢や動きが「近代的。イメージにぴったり合う」。人生を懸けることを決めた。  当時の寺内は、競技を始めるにはやや遅い小学5年生。目の色を変えて中国式の技術をたたき込んだ。遠征で海外同行の機会が増えると、手続きを簡素にするため、日本国籍を取得。96年アトランタ大会から6度五輪に出場する選手に育てた。  日本飛び込み界に幻滅したあの日から33年。今夏行われた世界選手権で、教え子が母国の一角を崩す瞬間が訪れた。高校1年の玉井陸斗(JSS宝塚)が男子高飛び込みで銀メダルを獲得。金と銅メダルの中国勢に割って入った。「回転、スピード、形は中国を超えるほどになる」と評する逸材を、「未来的」と言うほどほれ込む。  崇英さんは、かの子さんを日本の母と慕う。「馬淵という名を飛び込みのブランドに」との願いを込めて同姓にした。中国名の響きに合う漢字を提案したのは、かの子さん。中国語の勉強は現在も続けているという。2人の絆はもはや親子だ。  中国にとどまっていたら、もっと早く夢を実現できたかもしれないが、崇英さんは迷わず「日本で育てた方が価値が高い」と言って笑った。困難な状況でも粘り強く取り組み続けたからこそ、異国で長年強化の中核を託される地位を築いた。 (了) 【時事通信社】 〔写真説明〕飛び込みの指導者として活動を長年支えてもらった元五輪選手の馬淵かの子さん(右)と共に笑顔を見せる馬淵崇英コーチ=3日、大阪市港区 〔写真説明〕インタビューに答える飛び込みの馬淵崇英コーチ=3日、大阪市港区 〔写真説明〕インタビューに答える飛び込みコーチの馬淵かの子さん=8月4日、宇都宮市
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