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田中訪中に同席勧めた周首相=道開いた卓球人へ―日中国交正常化50周年


 1971年世界卓球選手権名古屋大会に再登場した中国は「友好第一、試合第二」のスローガンを掲げたが、小和田敏子は「私たちは深く考えなかった。中国選手も全力で戦ったと思う」と振り返る。森武は団体戦翌日に林慧卿の真っ赤な目を見て、「眠れなかったんだ」と思った。後半の個人戦で、彼女は3冠をさらった。  そして最終日の4月7日夕、中国が米国卓球選手団を北京へ招待するとのニュースが世界を駆け巡る。「美国(アメリカ)帝国主義打倒」のスローガンを見慣れた松崎キミ代は驚いた。「無事に帰れるかしら」と心配する米国卓球関係者に「大丈夫。おいしい中国料理を食べて名所旧跡へ行ってください」と答えたが、後で56年東京大会に来た中国選手も同じ心境だったと知る。  後年「キッシンジャー秘録」などで、以前から米中が水面下で接触を図っていたことが明かされ、名古屋で米国選手が間違えて中国選手団のバスに乗り込み、世界王者・荘則棟が記念品を渡した有名な逸話にも、演出説が流れた。  それも日中が続けてきたラリーがあればこそ。森はよく「名古屋以前が本当のピンポン外交」と強調し、91年千葉大会で南北統一チーム「コリア」を実現する荻村伊智朗(国際卓球連盟会長)の「スポーツ外交官」としての礎にもなった。  来日当初、中国選手は「毛沢東語録」を手に硬い表情だったが、さよならパーティーでは「一緒に『さくらさくら』や『上を向いて歩こう』を歌った」と小和田。「卓球選手同士という仲間意識、結び付きですね」  72年、田中角栄首相が訪中し、日中国交正常化の共同声明に調印する。直前、松崎はOB・OG戦で北京にいた。帰国間際に面会した周首相から「田中首相が来るから、皆さんの出発を遅らせて同席しましょう」と勧められたという。旅程を変えられず帰国したが、「もう私たちの出る幕じゃないとも思っていました」。  小和田はその後、現役を引退して結婚し、育児と大学の仕事に追われていた。  あれから50年。卓球人の交流は世代を超えて続いてきたが、2人は不安定な日中関係に心を痛め、互いに年齢を重ねる「姉妹」の消息にも思いをはせている。(敬称略、役職などは当時)  ▽米中ピンポン外交 71年世界卓球選手権名古屋大会中に、中国が米国卓球選手団を招待すると発表。朝鮮戦争などで続いていた米中の緊張関係が緩和へ進み、翌年ニクソン米大統領が訪中。両国は79年に国交を樹立した。 (了) 【時事通信社】 〔写真説明〕世界卓球選手権名古屋大会のさよならパーティーで言葉を交わす中国の李景光選手(左から2人目)と米国のオルガ・ソルテス選手(同3人目)、日本の伊藤繁雄選手(右端)=1971年4月7日、愛知県 〔写真説明〕周恩来首相(前列右から3人目)の私邸で写真に納まる松崎(現姓栗本)キミ代選手(同2人目)、荻村伊智朗選手(前列左から2人目)ら=1964年、北京市(栗本キミ代さん提供)
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