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ポイント
・ 酵素と基質が結合した複合体構造の特性を分子動力学シミュレーションで調査
・ シミュレーション結果から、l-メントールの純度および生産能力が向上した改良型酵素を創出
・ 環境負荷が少なく経済的にも優れたプロセスでの高純度l-メントール製造が可能に
【画像:https://kyodonewsprwire.jp/img/202502254670-O1-ncFAsa8k】
概 要
国立研究開発法人 産業技術総合研究所(以下「産総研」という)人工知能研究センター オーミクス情報研究チーム 池部仁善 主任研究員、亀田倫史 上級主任研究員と、天野エンザイム 株式会社(以下「天野エンザイム」という)イノベーション本部 フロンティア研究部 石原聡 博士、吉田和典 博士は、計算科学によって、香料としてそのまま利用できる高純度のl-メントールを合成できる酵素を開発しました。
メントールは特有のミント臭、清涼感による冷却効果、鎮痛効果から、化粧品の香料、医薬品の原料などとして広く用いられています。近年、メントールはハッカ、ミントからの抽出では需要を賄えず、工業的な生産が必須となっています。メントールは工業的価値の高いl-メントールと、副産物であり味や匂いが著しく劣るd-メントールの混合物であり、l-メントールの純度を高めるには高度な化学合成プロセスを必要とします。そこで、より純度の高いl-メントールの工業的合成のため、酵素の持つ基質特異性を活用したバイオテクノロジーによる製法が注目されています。
今回、l-メントールの工業的合成において有力な候補となる酵素Burkholderia cepacia lipase (BCL) をベースとし、産総研が開発した計算科学による酵素改変技術MSPERによって新たな酵素を開発しました。従来のBCLでは生成されるl-メントールの純度(光学純度)は98%ee程度であり、香料としてそのまま利用するのに必要とされる99%eeにはおよばなかったところ、新しく開発された酵素を用いると、最大99.4%eeのl-メントール純度を得ることができました。本酵素の開発は、環境負荷が少なく、経済的にも優れたプロセスでの高純度l-メントール製造に貢献します。
なお、この技術の詳細は、2025年2月17日に「Journal of Agricultural and Food Chemistry」にオンライン掲載されました。
下線部は【用語解説】参照
開発の社会的背景
メントールは特有のミント臭、清涼感による冷却効果、鎮痛効果から、化粧品の香料、医薬品の原料などの幅広い用途に使用される、経済波及効果の大きい製品素材です。その市場規模は2032年に11億9300万ドルに達すると予想されています *。元来メントールはハッカ、ミントからの抽出で生産されてきましたが、もはやこれらの栽培による増産では需要を賄えないため、近年では工業的な生産が必須となっています。メントールは工業的価値のあるl-メントールと、味や匂いが著しく劣る副産物であるd-メントールの混合物として製造されます(概要図)。d-メントールの割合を減少させ、l-メントールの純度を向上させることは工業的合成において最も重要な課題であり、これを実現するためには高度な化学合成プロセスが必要です。一方近年では、特定の物質(基質)とだけ特異的に結合し、その化学反応の触媒となる特性(基質特異性)を持つ酵素を利用した、バイオテクノロジーによる工業的合成が注目されてきています。l-メントールの生産においては、リパーゼとエステラーゼと呼ばれる酵素群がl-メントールの純度向上に有効であると注目され、これらの工業利用に向けた研究が行われてきました。本研究の対象である BCLは、その有力候補の一つです。
香料としてl-メントール生産物をそのまま利用するには99%ee以上の純度が必要ですが、従来の BCLを用いた生産では98%eeにとどまっていました。光学異性体であるl-メントールとd-メントールは化学的な性質がよく似ているため、工業スケールで分離し純度を上げることが難しいことから、製造段階で高純度を実現する BCLが求められています。
研究の経緯
産総研は、分子動力学(MD)シミュレーションや機械学習をはじめとする計算手法を用いて、酵素の機能向上、改変に関する研究を行ってきました。その一環として、酵素と基質が結合した複合体構造の情報から、酵素反応の特異性を向上させるための酵素改変部位を予測する MSPER 法を開発しました(2021年10月04日 産総研プレス発表、引用文献)。今回は、この技術を天野エンザイムが製品化している酵素 BCLへ適用し、高純度l-メントールを生産できる改良型 BCLを開発しました。
なお、本研究開発は、国立研究開発法人 新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の委託事業「植物等の生物を用いた高機能品生産技術の開発(2016~2020年度)」による支援を受けています。
研究の内容
酵素改良の研究では、酵素を構成する部品であるアミノ酸の一部を、別のアミノ酸に置き換えた改変型酵素(変異体)を作成することで、酵素機能の向上を狙います。BCLは320個のアミノ酸からできており、アミノ酸は全部で20種類あるので、アミノ酸一つを別のアミノ酸へ置換する変異体のパターンは320×19=6,080種類にもなります。本研究では、産総研が計算科学的手法を用いてl-メントールの純度向上に寄与する可能性が高いアミノ酸改変部位を絞り込み、天野エンザイムが行う検証実験の数を大幅に削減することで、開発期間の短縮と省力化を図りました。
BCLはメントールの原料であるl-メンチル酢酸(l体)とd-メンチル酢酸(d体)の混合物から、l体と特異的に結合し、l-メントールを生産します。しかしl体とd体は構造が非常に似ているため、d体とも結合してd-メントールを生産してしまうことがあります(概要図)。酵素の基質特異性を向上させるには、基質の微細な構造の違いに対応する改変部位を特定しなければなりません。そのため、酵素と基質の複合体構造の情報が重要となります。
BCLを用いたl-メントール生産の最大の問題は、変異体を予測するのに必要な信頼性の高い複合体構造情報が不足していることです。BCLとl体、d体との複合体構造は、これまで実験的に決定されていません。そこで本研究では、酵素と基質がそれぞれ単体で存在しているときの構造同士をコンピューター上で結合させ、互いの安定な複合体構造を予測する、ドッキングシミュレーション(DS)という手法を用いて複合体モデルを作成しました(図1右)。しかし、このモデルに基づいて MD シミュレーションを行うと、構造は安定的に維持されず、図1左上に示すように、BCLのピンクの部位が水色の部位に近づき基質を挟み込むような「クローズ構造」の方が安定性が高いことが分かりました。これまで報告されていた BCLの構造は全て基質結合部位が開いた「オープン構造」でしたが、別種のリパーゼでは類似のクローズ構造が報告されています(図1左下)。この結果は、DSによるモデルが実際の複合体構造を正しく反映していないこと、また信頼性の高い複合体モデルの生成が難しいことを示唆しています。
【画像:https://kyodonewsprwire.jp/img/202502254670-O2-EWvHdwnb】
そこで本研究では、複合体構造を単一または少数のモデルとして再現するのではなく、MDシミュレーションを用いて多数の構造からなる「構造集団」として再現するアプローチを採用しました。複合体構造に基づく改変部位予測では、構造のわずかな違いが予測結果に大きな影響を与える可能性があります。一方、MDシミュレーションで生成された構造集団には多様な酵素-基質の結合様式が含まれているため、特定の複合体構造に依存せず、安定性と信頼性の高い予測が可能となります。本研究では、クローズ構造に基づくMDシミュレーションを実施し、BCLとl体およびd体の多様な複合体構造をそれぞれ約35,000構造生成しました。
MSPERは、構造集団の情報を基に酵素の選択性を向上させる改変部位を予測する解析手法です。酵素と基質が結合する際、基質と直接接触するアミノ酸は、その複合体構造の安定性に重要な役割を果たすと考えられます。そこでMSPERでは、l体との複合体をできるだけ維持しながらd体との複合体形成を妨害するため、l体とはあまり接触せず、d体とよく接触する BCLのアミノ酸のランキングリストを出力します。このランキング上位のアミノ酸の置換は、l体との結合にはほとんど影響を与えず、d体との結合を不安定化させると考えられます。これにより、d-メントールの生産を抑制し、l-メントールの純度向上が期待できます。
MSPER によって提案されたアミノ酸部位のうち、最も効果的と予測されたアミノ酸一つを置換した計19種の変異体を作成し、検証実験を行いました。その結果、l-メントールの純度が向上する(最大99.4%ee)だけでなく、その変換率も大幅に向上した(最大約3.7倍)5つの変異体を見いだしました(図2)。光学異性体であるl-メントールとd-メントールを工業スケールで分離し、純度を上げることは困難です。そのため、香料としてそのまま利用できる99%ee以上の純度を達成する BCLが望まれていましたが、今回提案した変異体はこの基準を超えています。従来の工業的合成では、高度な化学プロセスを持つ企業がl-メントール生産のシェアの大半を占めていました。本酵素の開発は、温和な条件下で特異的に目的反応を行える酵素の特徴を活かして、環境負荷が少なく、経済的にも優れたプロセスでの高純度l-メントール製造に貢献できます。
【画像:https://kyodonewsprwire.jp/img/202502254670-O3-nkQ1KQG7】
今後の予定
本研究で開発された改良型酵素を含む酵素製剤は、共同研究先の天野エンザイムで製品化を進めています。高機能酵素製剤の供給は、環境負荷が少なく、経済的にも優れた工業化プロセスの開発につながります。計算科学による酵素設計技術を活用して、省エネルギー・低コストに高機能品生産をする「スマートセルインダストリー」の実現に貢献していきます。
論文情報
掲載誌:Journal of Agricultural and Food Chemistry
論文タイトル:Computational design of Burkholderia cepacia lipase mutants that show enhanced stereoselectivity in the production of L-menthol
著者:Jinzen Ikebe, Kazunori Yoshida, Satoru Ishihara, Yoichi Kurumida, Tomoshi Kameda
DOI:10.1021/acs.jafc.4c09949
引用文献
J. Ikebe et al. Sci. Rep. (2021) 11, 19004 DOI: 10.1038/s41598-021-98433-7
出典
* https://www.statsmarketresearch.com/menthol-2024-2030-528-7971378
用語解説
MSPER (Mutation Site Prediction method for Enhancing the Regioselectivity of substrate reaction sites)
酵素と基質の複合体の構造情報を基に、目的生成物の生成をできるだけ維持しながら、副産物の生成を阻害するための置換候補となるアミノ酸部位を提案する解析法。複合体構造中で、基質と直接接触する部位のアミノ酸を置換すると、その複合体が不安定化される、という考えに基づいて予測を行います。目的生成物を生成するときの複合体中では基質と接触率が低く、副産物を生産するときは接触率が高いアミノ酸部位を独自のスコアに基づいてランキングリストとして提案します。酵素開発では、変異体の検証実験が最大のボトルネックとなるため、変異導入箇所をランキング上位部位のみに絞り込むことによって、検証実験数を大きく減らし、酵素開発の期間短縮と省力化を行うことができます。
光学純度
l-メントールとd-メントールはよく似ていますが、左右の手のように分子の構造が鏡に映した対称関係にあります。このような分子を鏡像異性体(エナンチオマー)と呼びます。光学純度とは、エナンチオマーの混合物のうち、どれだけ一方の異性体が多く含まれているかを示す指標です。本研究では以下に示すエナンチオマー過剰率(Enantiomeric Excess, ee)によって光学純度を評価しています。
【画像:https://kyodonewsprwire.jp/img/202502254670-O4-41MiVThS】
リパーゼとエステラーゼ
主に自然界に存在するトリグリセリドや長鎖グリセリドの加水分解をする酵素の総称。本研究のl体やd体のように、構造のよく似た物質の混合物の中から、特定のものを優先的に触媒できるという性質を持つため、有機合成化学の触媒としてバイオテクノロジーへの応用が期待されています。本研究の対象酵素である BCLはBurkholderia cepacia という菌由来のリパーゼです。BCLは他のリパーゼ、エステラーゼと比べて高い耐熱性、pH安定性、有機溶媒耐性などの優れた特徴を持つため、l-メントールの工業生産化において有力な候補となる酵素です。
分子動力学(Molecular Dynamics, MD)シミュレーション
酵素や基質などの分子をコンピューター上に再現し、構成する原子間に働く力を計算することで、時間経過による分子の構造変化を追跡することができる計算手法。数日〜数週間程度の計算時間を必要としますが、後述するドッキングシミュレーションと違って、酵素と基質の構造変化を考慮した複合体構造の予測ができるというメリットがあります。
ドッキングシミュレーション(Docking Simulation, DS)
コンピューターを用いて、酵素の構造上にさまざまな配位で基質を配置した多数の構造を作成し、その安定性を評価することで安定な複合体構造を予測する計算手法です。MD シミュレーションよりも非常に高速な複合体構造予測ができますが、シミュレーション中に酵素の構造変化を考慮することができないというデメリットがあります。BCLは複合体を作る際に大きな構造変化が生じるため、本手法では安定な複合体構造を予測することができませんでした。
変換率
原料となるl体の量に対する、酵素反応で生成されたl-メントールの量の割合。変換率が高いほど、効率的に原料を生成物へと変換できる能力が高いことを表します。
プレスリリースURL
https://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2025/pr20250227/pr20250227.html