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人生のターニングポイントとなった4つの試合を振り返り「終わりなき挑戦」の先にある東京2020オリンピックへの決意を語る



Unfinished Games -終わりなき挑戦-(1)


Unfinished Games -終わりなき挑戦-(2)


Unfinished Games -終わりなき挑戦-(3)


Unfinished Games -終わりなき挑戦-(4)

野村ホールディングス株式会社(代表執行役社長 グループCEO:永井 浩二)は、バレーボール女子日本代表チームを率いる中田 久美監督が出演するドキュメンタリームービー「Unfinished Games -終わりなき挑戦-」を公開しました。

本動画は、15歳での日本代表デビューからバレーボール女子日本代表監督としての現在に至るまで、人生の中でターニングポイントとなった4つの試合を本人自らが振り返り、東京2020オリンピック競技大会にかける想いを伝えます。当社は、東京2020オリンピック競技大会(以下:東京2020オリンピック)において証券カテゴリー唯一のゴールドパートナーです。世界最高峰のスポーツの祭典を通じ、日本の経済成長や社会の発展に貢献することで、未来への夢や希望を応援しています。



画像1: https://www.atpress.ne.jp/releases/182116/LL_img_182116_1.jpg

Unfinished Games -終わりなき挑戦-(1)



【動画「Unfinished Games -終わりなき挑戦-」概要】

■動画名「Unfinished Games -終わりなき挑戦-」

・出演:バレーボール女子日本代表監督 中田 久美氏

・WEB動画URL: https://youtu.be/G4Gd03E200Q

JVA2019-03-010





【東京2020オリンピックでのメダル獲得に向けて「終わりなき挑戦」を続ける、中田 久美の知られざる物語】

「Unfinished Games -終わりなき挑戦-」。それは、オリンピックで金メダルを取ることに人生を捧げた、ひとりの女性アスリートの人生を振り返る物語。



1980年に当時史上最年少でバレーボール女子日本代表に選出されて以来、ロサンゼルス1984オリンピック、ソウル1988オリンピック、バルセロナ1992オリンピックと3度のオリンピック競技大会に出場し、現在は日本代表監督を務める中田監督。そんな華やかな経歴とは裏腹に、彼女の人生は幾度となく立ちはだかる高い壁に心が折れる日々の連続でした。では、どのようにしてそれらを乗り越え、未来につなげていったのか。彼女の過去を紐解くと、原動力である「誰よりも勝ちにこだわる強い想い」が見えてきます。



中田監督が選んだ「人生のターニングポイント」となった4つの試合。それらの写真で飾られた空間を巡りながら、彼女は当時の記憶と感情を呼び覚まし、長きにわたり第一線で戦い続けるアスリートとしての人生を振り返ります。

バレーボールに人生を捧げ、終わりなき戦いに挑み続ける、不屈の女性アスリートが、東京2020オリンピックにかける想いに迫ります。





【人生のターニングポイントになった4つの試合を通して、今なお戦い続けることの意味に迫る。】

<ターニングポイント(1):15歳で日本代表デビューを果たし、世界と戦う決意をした1980年中国戦>

中田監督が、長きにわたるバレーボール人生の中でターニングポイントに挙げた4つの試合の写真で埋め尽くされたミュージアムを巡り、これまでのバレーボール人生の足跡を辿り始めます。まだあどけなさが残る、初めて日本代表に選出された15歳当時のポートレート写真を前にして、当時の記憶や感情が蘇ります。1980年に初出場した中国戦、日本代表のユニフォームを着て戦うことに、自身の実力とのギャップに葛藤しつつ、夢であった日本代表に選出された喜びも感じていたという、当時の複雑な心境を語っています。



<ターニングポイント(2):メダルに手が届かず大きな挫折を味わった、ソウル1988オリンピックのペルー戦>

金メダルを目指して出場したソウル1988オリンピックでは、準決勝でペルーに3-2で惜敗した結果、メダルを獲ることなく4位。中田監督はターニングポイントとなったその試合を、「ここに写っている(コートにいた)選手にとっては思い出したくもない試合であったと思う」と振り返ります。「この大会に私懸けてたんだと思います。自分のバレーボール人生を。」という程の決意で臨んだ大会であったが力及ばず、「完全に、1回火が消えたオリンピックだと思います。」とその当時の悔しい想いを語ります。



<ターニングポイント(3):怪我を押して出場するも敗れ引退を決意した、バルセロナ1992オリンピックのブラジル戦>

4年後のバルセロナ1992オリンピックでは、怪我を押して自身3度目となるオリンピックに出場したものの準々決勝のブラジル戦で3-1の敗戦。メダルの可能性がなくなり、選手として現役の引退を決意したターニングポイントとなった試合。引退後、解説に転身するも「“何のためにバレーボールをやってきたのか”っていうところに、ぶち当たって」とバレーボールの目的を見失いかけていたが、亡き父君が生前に残した「人生に悔いはない」の言葉で奮起したと切なる想いを語ります。



<ターニングポイント(4):監督として初めてブラジルに勝利した、2017年日本代表の試合>

バレーボール女子日本代表の監督となった最初のシーズンで、強豪ブラジルを相手に現役時代に勝って以来の勝利を収めた歓喜の試合。代表選手たちに対して「真剣に向き合っていれば多分折れるでしょう。でもアスリートは、折れたものを戻す力が必要。」と呼びかけます。さらに「金メダルを獲ることよりも、“可能性にチャレンジする面白さ”があったから頑張ってこれた」と胸の内に秘めた言葉を口にしながら、「東京2020オリンピックでいい風を吹かせたい」と決意を語ります。





【バレーボール女子日本代表のオリンピックでの歴史】

かつてバレーボール女子日本代表は「東洋の魔女」と呼ばれ、東京1964オリンピックで金メダルを獲得してから、メキシコ1968オリンピックとミュンヘン1972オリンピックでは銀メダル、モントリオール1976オリンピックでは再び金メダルと4大会連続でメダルを獲得するという華々しい歴史に彩られていました。そのため当時のバレーボール女子日本代表チームは、金メダルは目指すべき目標として掲げられ国民からも大きな期待がかけられていました。東京1964オリンピックでのソ連との決勝の舞台では、平均視聴率が66.8%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)に達し、スポーツ中継番組としては現在でも歴代1位となっています。



しかし、ロサンゼルス1984オリンピックの銅メダルを境に長きにわたる低迷期に入り、ロンドン2012オリンピックの銅メダル獲得まで実に28年間もメダルから遠ざかっていました。そのような環境の中、2017年5月に女子日本代表監督に中田 久美氏が就任し、東京2020オリンピックでのメダル獲得を目指しています。



<オリンピックの成績>

・1964年:東京(日本)金メダル

・1968年:メキシコシティー(メキシコ)銀メダル

・1972年:ミュンヘン(西ドイツ)銀メダル

・1976年:モントリオール(カナダ)金メダル

・1980年:モスクワ(ソ連)不参加

・1984年:ロサンゼルス(アメリカ)銅メダル ※

・1988年:ソウル(韓国)4位 ※

・1992年:バルセロナ(スペイン)5位 ※

・1996年:アトランタ(アメリカ)9位

・2000年:シドニー(オーストラリア)最終予選敗退

・2004年:アテネ(ギリシャ)5位

・2008年:北京(中国)5位

・2012年:ロンドン(イギリス)銅メダル

・2016年:リオデジャネイロ(ブラジル)5位

・2020年:東京(日本)



※は中田 久美氏が選手として出場したオリンピックを表しています。





【出演者情報】

■中田 久美(なかだ くみ)

元バレーボール選手/バレーボール女子日本代表監督

史上最年少(1980年当時)の15歳1ヶ月で全日本代表に選出。ロサンゼルス1984オリンピックでは銅メダルを獲得、ソウル、バルセロナと3度のオリンピックに出場し、13年間にわたり日本代表チームの司令塔として活躍。引退後は、解説者・スポーツコメンテーターとして活動していたが、一念発起し、'08~'09シーズン、イタリア1部リーグセリエA「ヴィチェンツァ」で日本人女子として初めて海外チームの指導者に就任。同リーグ「ノヴァラ」のアシスタントコーチを経て、'12年より、Vプレミアリーグ「久光製薬スプリングス」の監督に就任。1年目から女子チームで初となる5冠を達成した。その後も数々の栄冠を手にし、'17年5月、バレーボール女子日本代表監督に就任(女性史上2人目)。

「'20年、伝説に残るチームに」と東京でのメダル獲得を目標とし、日本女子バレーボール復活に向けその手腕が期待されている。

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