
夜、見知らぬ女性が自宅を訪ねてきた。
幼子を背負い、両手に2人の子を連れている。子どもの足は血だらけで、わら草履を履かせ、カボチャなどの野菜を食べさせた。
爆心地から約5キロの自宅やその周辺には、多くの人が逃げてきた。母は炊き出しを続け、家の中はすすだらけになった。
「皆さんに伝わるか心配しておりますが、頑張ります」。7月上旬、長崎県長与町の被爆者、深堀安代さん(92)はそう切り出し、81年前の経験を初めて子どもたちに語り始めた。
「きれいな光」がもたらした惨禍
旧長与村(現長与町)で母と弟2人、祖父と暮らしていた。
1945年8月9日、11歳だった深堀さんは、疎開していた親戚の8歳の男の子と朝から近くの山にまきを拾いに行っていた。
落ちていたイシナシにかぶりついている時、飛行機の音が上空で聞こえた。空を見上げた瞬間、「金や銀の短冊のようなキラキラした、きれいな光を見た」。
熱線が当たって鼻の先をやけどした。すぐに男の子の手を引いて防空壕(ごう)に逃げ込んだ。
自宅に戻ると、ぞろぞろとアリの行列のように血だらけの人たちが歩いてくる。
長崎市から逃げてきた長崎師範学校の教員と生徒2人は身なりがボロボロだったため、出征中で不在にしていた父の服を貸し、麦ご飯を炊いて食べさせた。教員は家族の安否を確かめるため、再び生徒と市内に戻っていった。水や食料を求める人は夜まで絶えなかった。
母の辛苦、弟の嘆き
父の戦死が知らされたのは、終戦の2年後だった。45年6月、フィリピンのミンダナオ島で食料を探しに行き、行方不明になったという。遺骨はなく、届いた骨つぼには板切れだけが入っていた。
母は3人の子どもを育てながら寝たきりの祖父の介護もしていた。息子を連れて国鉄の踏切近くまで行き、自ら命を絶とうと考えたこともあったと後から聞いた。「母の心中はどれほどのものであったろう」と胸が痛んだ。
深堀さんの四つ下の弟浩二さんは、フィリピンなどでの遺骨収集に度々参加した。「父ちゃんが死んどっとに、うてあいもせん(相手にもしない)」。浩二さんはよくそう語り、深堀さんらが遺骨収集を手伝ってくれないことを嘆いていた。浩二さんは食道がんで59歳で亡くなった。
「争いはするもんじゃない」
浩二さんの死後、深堀さんは戦没者の遺族会に入り、「平和の語り部事業」の講師として登録。今年初めて講演の依頼があり、「もう92歳だし、記憶が残っている時に少しでも話しとった方が何かの役に立つのかな」と引き受けた。
初めての被爆講話は地元の長与町立洗切(あらいきり)小であり、児童約70人にとつとつと語りかけた。
今もうっすらと鼻のやけどの痕が残っていること。父の命が奪われ、貧しさで苦しんだこと。楽しそうな親子連れを見るとうらやましく、大人になっても「優しかった父に元気で帰ってほしかった」と涙があふれたこと。そして、世界では今も戦争が絶えないこと――。
なぜ武器を使わず、話し合いで解決できないのか。深堀さんは語気を強めた。「核も戦争もいらない。争いはするもんじゃない。早く平和な世の中になってほしい」【尾形有菜】
