
人生に「たられば」はつきものだ。誰しも一つや二つ、そんなことがある。だが、東日本大震災の被災地には大きな悔いを抱えながら生きる人がいる。腕を引っ張ってでも連れ出していたら、今も一緒に暮らしていられたかもしれない――。
岩手県大槌町の柏崎好身(よしみ)さん(66)。2DKのアパートに住み、平日は家庭ごみの回収に汗を流す。夕食時の缶ビール1本が自分へのご褒美。夜はテレビで韓国ドラマや時代劇を楽しむ。
一見、穏やかな日々に思える。しかし、15年前の震災を境に生活は一変した。
家族3人肩寄せ合って暮らしていたが、一人きりになった。2歳上の兄広行さんの遺体は発見されたが、母親のはつ子さんは見つかっていない。
柏崎さんの脳裏には、仕事に追われる母の姿が焼き付いている。朝からウニの殻むきやワカメの仕分け、野良仕事で日銭を稼ぎ、夜は裁縫にいそしんだ。父親は柏崎さんが10歳ごろの時に病死しており、柏崎さんも小学6年からアルバイトに励んだ。
「親分肌で曲がったことが大嫌い」。柏崎さんは兄の気性をこう評する。いじめられると、学校に乗り込んで先生に抗議してくれた。一方、柏崎さんも高校時代、胸ぐらをつかまれて一喝されたことがある。
豪気だった兄だが、40歳を過ぎて地元の水産加工場で勤務中に頸随(けいずい)を損傷した。リハビリで何とか歩けるようになったが、仕事には就けなかった。
兄の事故と重なるように、母は認知症が進んだ。震災から10年ほど前のことだ。
柏崎さんは、仕事と家族の介護に全力投球する。夜は母のトイレ介助の合間に横になり、朝は6時に起きて3人分の朝食を用意した。病状に合わせて母と兄の食事を作り分けたこともある。ほとんど眠れなかったが「気が張っていたので乗り切れた」と振り返る。
慌ただしくも、家族そろって暮らす日常は突然終わった。
2011年3月11日午後2時46分、柏崎さんは町の中心部でタクシーに乗務中、大きな揺れに襲われた。地震が収まると、客を送り届けてから会社に戻った。更に自分の軽自動車に乗り換え、約1キロ離れた大槌湾に近い自宅に向かった。
母は当時91歳。寝たきりで小さな車には乗せられない。「おふくろは仕方ない。せめて兄貴だけでも」。柏崎さんはハンドルを握りながら重い決断をした。
自宅に着くと「逃げっぺ」と声を掛けた。兄は「だめだ」。2~3分、押し問答が続いた。兄の目つきが厳しさを増し、普段使っていた松葉づえで柏崎さんをたたいた。そして叫んだ。
「俺はここに残る。おふくろは社協(社会福祉協議会)が迎えに来る。早く会社に戻らないと社長に怒られるぞ」
これ以上説得するのは難しい。そう悟った柏崎さんは「絶対に逃げろよ」と兄に告げ、勤務先に戻った。自宅は地震発生から三十数分後、津波にのまれた。
兄は1週間余りたった後、町内で発見された。53歳だった。遺体安置所で対面した時、ジャケットにスラックス、革靴を履いていた。柏崎さんの説得を拒んだ時は普段着だった。
震災の数時間前、兄は隣人とお茶をのみながら漏らしたという。
「おふくろがいるから津波が来ても逃げない。死んでもいい」
兄は誰に遺体を見られても恥ずかしくないよう着替えたと柏崎さんは推測する。一方、母は今も行方不明だ。
兄の言葉にひるむことなく、連れ出していれば助けられたのでは――。あの時、一人で自宅を出たことを柏崎さんは今も悔やむ。
東日本大震災から15年。大槌町では柏崎さんの家族ら1286人が犠牲になった。
「自分の命は自分で守る」「おのおのてんでんばらばらに逃げる」。毎年3月11日が近づくと、津波避難の心得が声高に叫ばれる。
だが柏崎さんはどうしても合点がいかない。
「救える命は他人が縄を付けてでも救わなければ」と考えるからだ。その思いは肉親を助けられなかった無念さから生まれた。世間がどうであれ、揺らぐことはない。【奥田伸一】
