
終戦後の1948年、国後(くなしり)島民だった20代後半の女性は、モッコ(網状の運搬用具)に押し込まれ、船に乗せられ樺太(現ロシア・サハリン)に向かった。
死も覚悟して離れた故郷には、二度と戻ることができなかった。
<荷物のごとくモッコにつられ引揚船に死なば諸共(とも)にと母といだきて>
数え切れないほどの走り書きの短歌
短歌の詠み手は、樺太経由で引き揚げた後、別海町に住み2012年に92歳で亡くなった大橋トキさん。
生前、趣味で短歌を書きためていた。
「荷物同然に扱われ、故郷を追われる。どんなに怖かったか……」
トキさんの長女で北広島市の林下哲子さん(73)は、過酷な引き揚げ経験をあまり語らなかった母を思い胸を押さえた。
母が短歌を詠んでいたことを知ったのは亡くなった後だった。
遺品を片付けた際、書斎の引き出しやお菓子の缶の中から、走り書きした短歌が数え切れないほど出てきた。
<稜線(りょうせん)をきれいに浮かべ爺爺(ちゃちゃ)岳は望郷のおもいをゆさぶりみせて>
晴れた日、母の部屋からは「国後富士」と呼ばれる国後島の活火山・爺爺岳が見える。
目の前の故郷に帰りたい衝動に駆られるたび、母は筆を執ったのだろう。
紙が貴重だった時代、色あせたカレンダーの裏紙やお菓子の包み紙のしわを伸ばし、一人で机に向かう母の姿が目に浮かんだ。
厳選した139歌を自費で製本
「母の人生を形に残したい」
きょうだいで話し、歌集を作ろうと決めた。出版社の勤務経験がある林下さんは編集を買って出た。
短歌の紙片には日付の記載はほぼなく、内容によって分類されてもいなかった。
これを約1年かけて整理し、1日10時間、作業に没頭する日もあった。
「高校進学で実家を離れ、働き者の両親とゆっくり話した記憶もない。国後に帰れない母の悲しさや家族への愛情を数十年越しに初めて知った」
時に涙をこぼしながら一つ一つ大切に読んだ。
13年10月、母の一周忌を前に、厳選した139歌を収めた歌集ができあがった。
非売品として自費で製本した。
表紙には母が毎日眺めた爺爺岳の絵を選んだ。
短歌を通じて向き合えたルーツ
母の歌と向き合う過程で自身に思わぬ変化もあった。
「引き揚げ者の子供だ」と胸を張って言えるようになったことだ。
昔から引き揚げ者への差別を感じてきた。
幼い頃は、ロシア語で「娘さん」を意味する言葉で陰口を言われた。
自然と周囲に自身のルーツを話さなくなったが、「母たちの切実さと苦労を後ろめたく思う必要なんてない」と考えるようになった。
歌集の完成から12年後の今年6月、引き揚げ船の乗船名簿に載る母の名前を確認できた。
「本当に船に乗っていたんだな、こうして私たちの今につながっているんだな」
母が短歌に記した引き揚げの記憶と、現実の記録がつながった。
また目頭が熱くなった。【後藤佳怜】
