
「ああ、やがて自分もこうやって、命をなくして帰ってくるのかと思った」
福島県南相馬市の大槻明生さん(91)は先の大戦中、戦死した同郷の特攻隊員の「帰還」を出迎えた時の記憶を、こう振り返った。戦争により身近に「死」を意識せざるを得なかった時代。その影は、子どもの心にもくっきりと跡を残した。
太平洋戦争末期の1944年10月25日、爆弾を載せた飛行機で体当たり攻撃をする海軍の神風特別攻撃隊敷島隊がフィリピン沖の米軍艦艇を攻撃するために出撃。5人の隊員が帰らぬ人となった。
敷島隊は、戦時中に約4000人が亡くなったとされる特攻隊の第1陣だった。隊員の中に、旧原町(現・南相馬市原町区)出身の中野磐雄(いわお)少尉(戦死後に一等飛行兵曹から昇進)がいた。
戦時体制下、特攻死した中野少尉は「軍神」とたたえられた。その「遺骨」が故郷に帰るとされた日、当時10歳だった大槻さんは原ノ町駅から約1キロ離れた中野少尉の自宅近くの道路脇に他の児童とともに並んだ。
沿道では大勢の人が中野少尉の「帰還」を待っていた。遺族が白い布に包まれた箱を胸前に抱えながら、静かに歩いてくる姿が見えた。目をつぶり、両手を合わせて冥福を祈った。
フィリピン沖での戦死だったため、遺族の元に戻ったのは、出撃前に残していたとみられる遺髪と爪のみだったという。中野少尉は、まだ19歳だった。
大槻さんは「いずれ自分も戦争に行くんだ」と実感した。小学校の授業も軍事色が濃く、手旗信号や竹やりの訓練をする毎日だった。
大槻さんは戦後、中野少尉や、地元出身で同様に戦死した特攻隊員の志賀敏美少尉について調べた。戦時中に全国から航空兵を集め、特攻隊員を養成していた原町飛行場に勤務していた男性に会い、さまざまな話を聞いて記録。飛行場の遺構も訪ね歩いた。
こうした活動は「地元の歴史が忘れられてしまうかもしれない」との危機感からという。中野、志賀両少尉についても、戦後に同窓生ら関係者が慰霊碑を建て、慰霊祭を営むなどしていたが、高齢化が進み多くが亡くなった。当時を直接知る人は少なくなった。
爆弾の衝撃、原町空襲の記憶
戦時中、大槻少年が「死」を感じた瞬間がもう一つある。旧原町を襲った「原町空襲」だ。
原町空襲は45年の2月と8月にあり、8月は9、10日と2日間にわたった。南相馬市博物館によると、8月の両日で計十数人が犠牲になったとされる。原町飛行場のほか、原ノ町駅、原町国民学校なども被害に遭った。
10日朝、夏休みで自宅にいた大槻さんは、空襲警報を聞いて近くの防空壕に飛び込んだ。80メートルほど離れた場所で爆弾が炸裂し、「すごい衝撃で、体が浮いた」。ふと、入り口のすだれをめくると、機体を青く塗った米海軍の戦闘機が、「少し高い建物だったらぶつかるぐらい」の低空で飛び去るのが見えた。
爆弾で開いた大穴や、徹底的に破壊された鉄道の線路なども覚えている。一連の空襲では4歳の幼児も亡くなっており、「戦争がなければ、その後の人生の楽しみもあっただろうに」としのんだ。
90代となった今も、終戦記念日のある8月ごろには市民の集まりなどから依頼を受け、特攻隊や原町空襲に関する自身の記憶や調べたことなどを話す講演を続けている。
「戦争はだめだ。子どもに(死を意識させるような)あんな体験をさせてはいけない。もう残された時間は少ないが、語り続けたい」。大槻さんはそう語気を強めた。【田倉直彦】
