
「全国犯罪被害者の会」(あすの会)を設立し、犯罪被害者の権利確立や支援に取り組んだ弁護士の岡村勲(おかむら・いさお)さんが2月24日、肺炎のため亡くなった。95歳。葬儀は近親者のみで営んだ。お別れの会を後日開く予定。
「恥ずかしながら、こんなに被害者の権利がないことを初めて知った」
2000年1月、「あすの会」の結成を呼びかける記者会見で、岡村勲さんはそう語った。当時70歳。日本弁護士連合会の副会長も務め、既にベテラン弁護士の域に達していたが、ここから、当時はないがしろにされていた犯罪被害者の権利拡充にひた走った。
弁護士になって39年目の1997年、妻の真苗さんが殺害された。被告の刑事裁判で、被害者に何の地位も権利もないことを知り、がくぜんとした。公判記録の閲覧はできず、判決謄本ももらえない。被告が妻に落ち度があるかのような、でたらめな供述を法廷でしていても、傍聴席からただ見ているしかなかった。
あすの会の結成後は、代表幹事として自ら動いた。「お願いするだけでは実現しない」。被害者が公判に立ち会って被告に質問する権利や、事件記録の閲覧・謄写を認めるよう政治家や省庁、最高裁に働きかけた。弁護士や学者と研究を進め、02年には被害者参加制度があった独仏に調査団を派遣。司法制度改革推進本部長だった小泉純一郎首相(当時)にも直訴した。
活動は次々と結実する。00年施行の犯罪被害者保護法で記録の閲覧・謄写が認められ、04年に犯罪被害者等基本法が成立。刑事訴訟法の改正で08年から悲願の被害者参加制度が導入され、公判に参加できるようになった。制度設計には法制審議会(法相の諮問機関)の部会委員として関わり、「被害者は法廷で思いを述べただけで救われることもある。判決に反映されなくても、達成感は大きい」と感慨深げだった。
11年に体調不良で顧問に退き、18年6月には、会員の高齢化を理由にいったん解散した。しかし、26人が亡くなった21年の大阪市北区のビル放火殺人事件では容疑者が死亡し、遺族は賠償請求する道を閉ざされた。「このまま自分が死んだら何も変わらない」。22年3月、「新あすの会」として再結成した。
老骨にむちを打ち、被害者に対する継続的な経済補償の必要性を訴え続けた。新あすの会の働きかけを受け、政治も動いた。自民党のプロジェクトチームは犯罪被害給付制度の見直しを政府に提言し、24年4月、遺族給付金の最低額が1000万円超の水準まで引き上げられることになった。
「制度を変えるために犯罪被害者自身が動かなければならないような国は、日本を最初で最後にしてほしい」。残した言葉は重く、その宿題はまだ残されている。【飯田憲】