子どもたちに「(父いわく)史上最高の野菜炒め」を作り、ドラマの主題歌を口ずさみながら皿を洗う――。川崎市で暮らした脚本家、山田太一さんが亡くなって、29日で1年。次女の長谷川佐江子さん(57)が、娘から見た父・山田太一を語った。【本橋由紀】
山田さんは1934年、東京・浅草で食堂を営む両親の間に生まれた。戦時中、小学3年生の時に強制疎開で湯河原町へ移住。県立小田原高在学中は父と義母が不仲で、山田さんが食事作りを担っていた。
一見、平凡に見える家族がそれぞれ事情を抱えることを描いた山田さん脚本のドラマ「それぞれの秋」や「岸辺のアルバム」。佐江子さんは「主人公は父だったんだなあと思います」と話した。
早稲田大を経て松竹に入社。「何でも屋」である助監督の経験は、家族サービスに生かされた。「家族で出かけるとき、父は駆け足で駅に先に着いて、改札口で全員の切符を持って待ち、改札を通ると切符を集めていた」
65年にフリーの脚本家になった山田さんは、70年代に入り、川崎市内の坂の上に自宅を建てた。学生時代、東京・恵比寿で、日赤病院や聖心女子大を見上げる谷底のようなところに暮らしたと聞いていた佐江子さんは「だから坂の上が好きだったのかも」と思いを巡らせた。
山田さんは規則正しい生活スタイルを貫いた。朝は午前9時までに2階の書斎に行き、正午に1階で昼食。夕食も時間が決まっており、夜は2階で仕事をした後、居間で家族と一緒にTBS系「ザ・ベストテン」やニュース番組などを見た。「(2017年に)脳出血で倒れるまで同じリズムだった」
佐江子さんが中学生の時に「想い出づくり。」、高校生の時に「ふぞろいの林檎たち」が放映された。いずれも山田さん脚本のドラマだが、番組が始まる5分前に家族は居間に集合して画面に見入った。
活躍する父の名前は、通学電車の週刊誌の中づり広告にいつものようにあった。「パパがいる、と誇らしかった」。大学入学時、父がソファで横に座り「これからの4年間は人生からのご褒美(ほうび)だよ」と話したことがあった。子どもをとてもかわいがり、孫にあたる佐江子さんの子どもとも、ゲラゲラ笑いながらいつまでも遊んでくれたという。
時には「書けなーい」と叫ぶようなこともあったが、娘の目には脚本を書いている父は「喜んで苦しんでいた。(脚本家は)天職」と見えた。「ああしろ、こうしろとは言われなかった。父のメッセージはドラマから受け取っていました」
17年に山田さんが倒れた日は、ちょうど佐江子さんの誕生日だった。右半身まひと言語機能の障害が残り、長い期間、リハビリに取り組んでいた。「時間をかけて準備をさせてもらい、上手にお別れできた」と話す。
佐江子さんは、残された山田さんの机や本棚、大量の書籍、ドラマのDVDなどを自由に見ることができる場を作れないかと考えているという。「作品のことを話すとき一番いい顔をしていた父だから」