1950年代から2000回に及ぶ発掘調査が積み重ねられ、少しずつ像を結んできた長岡京の姿が、更新された。都の「北端」と考えられてきた道路より北側も街区が開発され、人が暮らしていたことを示す遺構の発見。調査に長年携わってきた京都府向日市埋蔵文化財センターの梅本康広事務局長は「教科書の復元図が改定される、決定的な成果が出た」と喜ぶ。
都の中央を朱雀大路が貫き、その北端に天皇が住まい、政治を行う宮殿がある――。日本の古代の都は平城京以降、「天子南面す」の考えに基づいて造営された。平安京も都の中央北端に平安宮がある。その間の長岡京についても当然同じプランだったと考えられ、90年代には長岡宮と朱雀大路を挟んで左右対称に方形の区画が整然と並ぶ「復元図」が定まった。
ただ「北端」のはずの北京極大路は、実際には道幅が小路の9メートルしかなかったことが発掘調査で分かるなど、再検討の必要性は高まっていた。「長岡京の真の姿がようやく見えてきた」。梅本さんは「長岡京が造られた地域は、河川に恵まれ、交通や物流の拠点となりうるからこそ選ばれた」とし「今回の発見は、平城京と平安京というモデルに縛られず、長岡京(の街区)は、土地の条件に従って現実的に造られたことを決定づける」とする。
では、桓武天皇は当初から平城京を踏襲せずに新都建設のプランを練ったのだろうか。網伸也・近畿大教授(古代都城史)は、これまでも宮域と大路の不自然な位置関係などに注目し、長岡京の「不完全さ」を指摘してきた。「桓武天皇は平城京から早く離れたいがためにとりあえず宮殿の造営を急いだと考えられ、全体をきちんと設計していなかったのではないか」。10年後に早くも平安京に遷都したのも、うまくいかなかったのが本当の理由ではないか、と踏み込む。謎多き旧都の姿が少しずつ明らかになりつつある。
京都市埋蔵文化財研究所による現地説明会は、21日午前10時半から正午まで。当日の問い合わせ先は(080・4854・8962)。【日高沙妃、南陽子】