物言わぬ遺体は何かメッセージを発していないか。異変や犯罪性をつかむ手がかりになるのは、法医学者らによる遺体の解剖だ。「紀州のドン・ファン」と呼ばれた野崎幸助さん(当時77歳)が死亡した事件では、犯罪死の見逃しを防ぐために設けられた新制度が活用された。
2018年5月、和歌山県田辺市の自宅で死亡しているのが見つかった野崎さん。現場を受け持つ和歌山県警田辺署はすぐさま遺体を解剖すると決めた。
解剖の結果、多量の覚醒剤成分が検出された。犯罪死の見逃しは薬毒物に絡む場合が多いとされるが、県警は事件性を強く疑うようになった。容疑者を特定しないまま野崎さん宅や経営する会社を殺人容疑で家宅捜索し、本格的な捜査が始まった。
この事件で利用されたのは明確な犯罪性が高くなくても実施できる「調査法解剖」と呼ばれる制度だ。医師や家族らにみとられて亡くなった場合を除けば、死因が明らかではない遺体は少なくない。事件に巻き込まれた可能性も拭えないことから、死因究明の取り組みを充実させる目的で導入された。死因・身元調査法に基づき、13年4月から実施されている。
死者の人権を守るため
きっかけの一つになったのは、大相撲・時津風部屋の力士が07年に死亡した事件だ。警察は当初病死と判断していたが、解剖の結果で死因は外傷性ショックと判明。親方らから繰り返し暴行を受けていたことが明らかになり、初動捜査の甘さが問題視された。
犯罪捜査を目的とする司法解剖と異なり、調査法解剖は警察署長の判断で実施可能なうえ、裁判所の令状や遺族の承諾は不要とされている。ある警察関係者は「解剖の内容は変わらないが、簡略化された手続きで死因を早期に特定できる」と説明する。
警察庁によると、調査法解剖が実施された件数は導入翌年の14年は1921件だったが、23年は3116件にまで増えた。独居の高齢者や若者の突然死などでも活用するケースがあるという。
日本法医病理学会理事長で、和歌山県立医科大の近藤稔和教授は「解剖は亡くなった方の人権を守るため、最後にできる医療行為だ。事件性が定かでない場合にも確かな死因を究明することは重要になるため、調査法解剖には意義がある」と話す。【安西李姫】