毎日新聞が戦時中に発行した青年向け雑誌「大日本青年」には、延べ1万5000人を超える読者からの投稿が掲載されました。
彼らは戦争の時代をどう生き抜いたのか。あるいは命を落としたのか。
その人生をたどり、受け止めるため、「大日本青年」の残像を記者たちが追いかけました。
アリューシャン列島最西端の激戦
ある青年の手記が雑誌「大日本青年」に掲載されたのは、太平洋戦争の戦況が悪化の一途をたどっていた1943年7月だった。
手記では、父との最後の思い出をつづっている。
東京から半年ぶりに帰郷した新潟・高田はどの家も軒先まで雪に埋もれていた。我が家には、何年も目にしていなかった父の顔があった。
「いい相手が来た」。父はそう言って青年をこたつの中に引っ張り込んだ。弟や妹とすごろくに興じていた父は、青年が小さかったころも日曜日のたびに山や川にセミ捕りや魚釣りに連れて行ってくれた。
その父は43年5月29日、雪に覆われた険しい山々がそびえる北太平洋の孤島にいた。日本から約3000キロ離れた米国アラスカ州アリューシャン列島の最西端に浮かぶアッツ島。
約2600人の部隊は、30人近くが捕虜になったほかは、部隊長だった父を含め全滅した。
1万人を超える米軍を相手に救援を求めず最後まで戦い抜いたとして、大本営は初めて「玉砕」という言葉を使って、その死をたたえた。
青年はその日からこう呼ばれるようになった。
「軍神の息子」
追い込まれた末の決死の突撃
手記の題は「アッツ島に砕けし父を偲(しの)びて」。51歳で戦死した山崎保代(やすよ)部隊長の次男、保之さんが書いた。
父との思い出に続き、航空隊に入って後を継ぐ決意を書いている。
毎日新聞も玉砕と報道した翌日の43年6月1日に「父の屍(しかばね)を乗越えて 僕は征(ゆ)く 陸鷲(りくわし)で」との見出しで、大日本学生航空隊練習生の試験を受ける保之さんの記事を掲載。その後も航空隊合格や入所式など節目のたびに取り上げていた。
アッツ島の玉砕は美談となり、戦争プロパガンダとして利用された。「軍神山崎部隊」という子ども向けの本も出版された。
手記が載った大日本青年にもアッツ島を題材にした投稿が多く見られる。
昭和18年8月号の読者欄には「皇国の御ために散り行くといふことは国民としての絶対最高のものではなからうか」とする広島の青年の声が載った。
昭和18年10月号の歌壇のコーナーでは「微笑(ほほえ)みて勇士橇(そり)ひくアッツ島の写真を見れば涙はふり落つ」「国内守るわれらがどちも事しあらばアッツ二千の兵に続かむ」という2首が佳作に選ばれている。
しかし実際は、勝ち目がないとみた大本営が部隊からの救援要請に応じず追い込まれた末の決死の突撃だった。
数年に1回長い休みに訪れる場所
「軍神の息子」は戦地に赴くことなく、終戦を迎えた。その後、どのような人生を送ったのだろう。
保之さんの息子で、山崎部隊長の孫に当たる信之さん(65)に取材を申し込み、1週間後に東京都内で会った。
保之さんは2015年に90歳で亡くなっていた。戦後は化学メーカーのエンジニアとして、残された幼いきょうだいたちの面倒を見ながら、仕事で全国各地を飛び回った。
「みんなの前で勇ましいことを言ったのが本心だったのか、それとも言わざるを得なかったのか。父は何も語らなかったので分からないんです」
サラリーマンとして忙しく働く中、数年に1回長い休みを取って訪れる場所があった。それがアッツ島だった。
保之さんは亡くなるまでアッツ島遺族会の会長を務めた。その後、会長となった信之さんは言う。「祖父が部下を死なせてしまったのは事実。私も遺族会に関わるようになってから気づいたのですが、父は部隊長の息子として遺族の思いを引き受けようとしていたのかもしれません」
保之さんを島へと向かわせたものは何だったのか。行動を共にしてきた遺族たちの元を訪ねた。
「父から母へのラブレターなんです」
東京都大田区の石井義平さん(89)は80年以上前のあの日の夜のことを覚えていた。当時8歳だった。
夕飯を終えたころ、ラジオでアッツ島の部隊が全滅したというニュースが流れた。
「長さんがいるところじゃないか」。家族の誰かがそう言った。
札幌で開かれた合同慰霊祭で渡された箱には、父長七さん(当時34歳)の遺骨ではなく、1枚の紙切れが入っていた。
「お袋はよく泣いていました。二つ上の兄は『米国と英国をやっつける』と息巻いていた。でも私はあまりにも突然で実感すら湧きませんでした」と振り返る。
千葉市若葉区の佐野ハツヱさん(82)は、机の上に何枚もの手紙やはがきを並べて見せてくれた。
「これは父から母へのラブレターなんです」
父六三(ろくぞう)さん(当時25歳)と二つ年下の母チヨさんは恋愛結婚だった。41年に結婚したが、10カ月後に召集された。チヨさんのおなかにはハツヱさんがいた。
六三さんは筆まめだった。チヨさんの父親や妹たちにも手紙を送った。「男の子だったら堅太郎、女の子だったらハツヱ」。生まれてくる子どもの名前も手紙で知らせてきた。
「いつ船に乗って出るかわからない。元気で行って来る。丈夫で暮してくれよ」。そう書き残して北海道からアッツ島へと向かい、帰らぬ人となった。父の死後、母は幼いハツヱさんを実家に預け、温泉旅館で住み込みで働いた時期もあった。
母は8年前に96歳で亡くなった。仏壇の引き出しを見ると、父の手紙が出てきた。すりきれてセロハンテープで補修したものもあった。
「つぎはぎだらけになるまで、母は何度も読んでいたのでしょう」と言い、大切そうに封筒にしまった。
いくら求めても戻らない遺骨
東京都台東区の浅野裕子さん(81)は、父の遺骨が今も島から戻ってこないことに憤りを感じていた。
父の岡崎裕雄さん(当時30歳)は裕子さんが生まれる前後に出征。一度も我が子の顔を見ることができないまま戦死した。
「救援を求めていたのに大本営は玉砕と美化して2600もの人たちを見捨てたんです。私は父の顔を写真でしか知りません。国にいくら求めても遺骨は戻らない。あまりにも理不尽だと思います」
戦後、日本に持ち帰ることができた遺骨は320人分しかない。08年の現地調査を最後にストップしたままの遺骨収集について聞いていると、裕子さんがふと思い出したように言った。
「保之さんは戦後初めてアッツ島に遺骨調査に入ったときに同行していました。そこで、お父様の遺体を見つけていらっしゃったんです」
保之さんは対面した父をどうしたのだろう。【堀智行】