家庭裁判所は「家庭に光を、少年に愛を」の標語の下、1949年1月に発足した。別々に扱われていた少年事件と家事事件を統合した組織である。三淵嘉子は最高裁事務総局に在任中、家庭局でその設立に関わっている。【本橋由紀】
嘉子は62年12月、48歳の時に家庭裁判所に配属された。修業を十分に積み、50歳前後になってから「人間の心を扱う」と言われる家裁の裁判官になるという自身の立てた方針通り。63年4月に東京地裁との兼務が解け、少年事件に情熱をかけ、生きがいとした。
嘉子が早い段階で家裁への配属を希望しなかった理由はもう一つある。先陣を切る嘉子が家裁に行けば続く女性たちも家裁に送り込まれると考えたからだ。残念ながらそれは的中する。同期の男性が裁判長に指名される中、女性裁判官は家裁に集められた。嘉子らは「この上は誰にも負けない家裁のベテラン裁判官になろう」と励まし合ったという。
犯罪白書によると、少年による犯罪は、ちょうど嘉子が家裁の判事となったころの64年に23万8830人(人口比11・9%)と、戦後の混乱期に続く「第2のピーク」を迎えていた。
家裁での嘉子は、少年の健全育成という少年法の理念にまっすぐだった。「何かのきっかけがあれば立ち直るのではないかという希望を捨てなかった」と自身が書き残している。同僚らの回想によれば、少年らの話に熱心に耳を傾け、ほかの裁判官や調査官にもじっくりと話を聞き、そのまるごとを受け止めて最良の道を探った。
情に深く、少女の話に目にいっぱい涙をためるようなこともあった。そうした姿勢は少年らの心をほぐし、自ら立ち直る意欲を引き出した。一緒に働いた元裁判官で弁護士の奥山興悦さん(83)は「人を動かすような声で笑うとえくぼができ、その顔を見ると人を信じたくなるような存在だった」と評した。
女性初の裁判所長として72年6月、新潟家裁に赴任。浦和家裁、横浜家裁でも所長を務め、定年退官するまでの16年間で5000人超の少年に向き合った。
また、家裁の教育指導に協力するボランティア団体「少年友の会」の創設に尽力した。付添人活動、社会奉仕、学習や就労の支援などを担う団体である。裁判所の中に事務局を設置し、66年から活動が始まった。
全国50カ所の家庭裁判所に同様の会ができた翌年の2010年には、全国少年友の会連絡会(全少連)が生まれた。嘉子らと少年法改正の問題に取り組んだ元裁判官で、現在は全少連の代表世話人、荒井史男さん(89)ら、友の会の会員約30人は今年4月、「三淵邸・甘柑荘」(小田原市板橋)を訪れた。
荒井さんは嘉子のことを「人に対する優しさ、おおらかさ、人間愛にあふれた人」と振り返り、友の会を作ったことをたたえた。友の会は現在、約1万人の会員を擁する組織に育っている。