「私たちと同じ苦しみを味わう人が一人でもいたら大変」。そんな思いにずっと突き動かされてきたのだろう。記者が問いかけると、修学旅行生の前に立って話したかつてのように、消えない記憶を身ぶり手ぶりを交えて伝えた。
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10歳の時に長崎の爆心地から約800メートルで被爆し、母と姉らを亡くした体験を子供たちに1万回以上語ってきた下平作江さん(89)。1945年8月9日午前11時2分、防空壕(ごう)内で閃光(せんこう)に射抜かれ、爆風で壁にたたきつけられ気絶した。「私は運よく助かったの。奥の方にいたから」
母と姉は昼食の支度で、下平さんらを防空壕(ごう)に残して爆心地から約300メートルの自宅に帰っていた。「母ちゃん」。姉の子である1歳のおいをおぶり、妹を連れて焼け野原を捜し回った。かろうじて焼け残った着物の端を手がかりに、母たちと思われる半焼けの遺体を見つけた。木切れを集め「さよなら、さよなら」と泣きながら焼いた。
40歳のころから、長崎を訪れる修学旅行生に体験を語った。2010年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議などで海外にも出向き「ノーモアヒバクシャ」と訴えた。しかし、数年前から物忘れが激しくなるなどし、22年秋に長崎市の「恵の丘長崎原爆ホーム」に入所。23年10月、久々にホームを出て、英国の非政府組織(NGO)の写真撮影に応じた。
同行した記者が最近の暮らしを尋ねても答えはあいまいだった。だが、被爆時に質問が及ぶと、身ぶりも交え繰り返して語った。「叫べども叫べども返事がない中で親きょうだいを捜すほど苦しいことはない。自分たちだけが生き残って親きょうだいを焼いたことは脳裏から消えない」【高橋広之】