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SNSで届く「今、燃やされました」 ミャンマー青年の悲しみ


 民主国家としての道のりを歩んでいたはずのミャンマーで、国軍がクーデターにより全権を掌握して2年がたった。民主派への弾圧が続き、一般市民が巻き込まれる流血の惨事も頻発している。遠く離れた埼玉県内で、故国の行方を案じるミャンマー出身の青年がいる。新聞配達で生計を立てながら、自動車の専門技術を学ぶルーリンさん(28)=仮名=である。「言葉にならないほど悲しい」。うめくような声だった。【隈元浩彦】

 スマートフォンの写真を見せてくれた。そこには焼け野原になった廃虚が写っていた。

 「おばさんが住んでいる村です。2カ月ほど前、いきなり軍が来て焼き払ったそうです。逃げられないお年寄りは焼け死んだ。燃えているところは誰も写真に撮ったりしません。何をされるか分からないから。その代わり『いま、燃やされました』と、SNS(ネット交流サービス)で連絡が来るんです」。ルーリンさんは顔を曇らせた。

 首都ネピドーから北西約300キロのザガインで生まれ育った。おばが住む村とは近い。2022年9月、国軍のヘリコプターが近くの別の村の学校を攻撃し、多数の子どもたちが犠牲になった。

 「ザガインなど北部は危険地域なんです。民主派など抵抗勢力が結成した国民統一政府(NUG)の影響力が浸透し、国軍が見境なく攻撃している。無関係なおばの村も、支援しているという疑いで焼かれたのでしょう」。故郷には母が一人で暮らす。電話の背後で爆音が聞こえることもある。「戦闘の最前線になっている」と感じている。

 ルーリンさんは地元近くの大学で歴史を学んだ後、経済の中心地、ヤンゴンに出て日系の企業に勤めた。日本人上司の勧めで18年に来日した。アウンサンスーチー氏を国家顧問にすえた国民民主連盟(NLD)政権が発足して2年目。国内は活気にあふれ、「これからは自動車の時代。いずれ修理工場を経営したい」と自分の将来を描いた。2年間は日本語を学び、いまは新聞配達をしながら自動車整備の専門学校に通う。

 21年2月1日。クーデターのニュースが飛び込んできた日のことは忘れられない。「怒り、悲しみ。言葉に言い表せない感情と同時に、なぜ、という疑問で頭が混乱しました」。電話、SNSはつながらず、母の安否を気遣った。連絡が取れたのは1カ月半後だった。「母は何が起きているのかよく分からない状況で、私の方からネットなどで知った情報を伝えました」

選挙に苦い記憶

 スーチー氏を「ミャンマーの母」と慕う。NLD政権が誕生する転換期となった15年の総選挙ではもちろん、20年の総選挙でも東京のミャンマー大使館まで出向いてNLDに一票を投じた。

 選挙には苦い記憶がある。軍政から民政に移行する10年の総選挙でのことだ。高校を卒業したルーリンさんは「新しい国づくりに尽くしたい」と思い、軍幹部養成学校への進学を目指し、予備学校にあたる国軍の学校に入校した。投票日前、上官から「汚い者が選ばれてしまうかもしれない」と言われ、投票用紙を回収された。どう使われたのかは分からない。「後になって、おかしなことだと気づいた。以来、選挙だけは自分で投票したいと思っています」。結局、軍学校は視力の低下で1年足らずで退校した。

 今もNLDなどの民主勢力によって結成されたNUGを支持するが、思いは複雑だ。「NLDといっても、みんながスーチーさんのような立派な人ではない。中には悪い人もいる。軍は軍なりの『正義』で強硬手段に出たのでしょう。スーチーさんが一人では足りないんです」

もっと声上げて

 戦闘地域は広がり、情勢は悪化の一途だ。国連人道問題調整事務所の22年末の集計では150万人が国内避難を強いられ、民間団体の調査では死者は数千人に上るとされる。

 「悲劇から救えるのは、国軍のミンアウンフライン最高司令官ただ一人です。拘束中のスーチーさんを解放し、選挙を行う。このままだと、泥沼化してしまう。日本をはじめ、国際社会がもっと声を上げてほしい」とも。

 最後にルーリンさんはこんな話をしてくれた。「国名はビルマからミャンマーに変わりました(1989年)。ビルマ族をはじめ135の民族があり、ビルマだと特定の民族の国名になってしまうからです。ミャンマーという一つの家なんです。それなのに……」。あふれ出る言葉を抑えているのか、苦しげな表情を浮かべた。

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