ノンフィクションライター亀山早苗は、多くの「昏(くら)いものを抱えた人」に出会ってきた。自分では如何ともしがたい力に抗うため、世の中に折り合いをつけていくため彼らが選んだ行動とは……。妻に浮気を告白され、自分の心にわき起こった意外な感覚に驚かされた男性がいる。怒り、絶望、そして強烈な嫉妬と執着。そんな気持ちを彼はどう整理したのだろうか。
■ある日突然、妻からの告白
「結婚15年って、水晶婚というんだそうです。半年前、水晶婚を迎えた僕らは、中学生と小学生の子どもたちを義母に預けて、レストランで食事をしました。その後、雰囲気のいいバーへ移って1杯。そこで突然、妻が言ったんです。『私、好きな人ができちゃった』と」
苦悩に満ちた表情でそう話してくれたのは、タケルさん(45歳)。2歳年下の妻とは4年つきあって結婚、忙しいながらも穏やかな家庭生活を営んできたという自負があった。
「そのときの僕はどんな顔をしていたのか、今となっては思い出せない。ただ、彼女の横顔がきれいだなと思った記憶はあります。お酒のせいか恋心のせいか、ほんのり上気した顔がなんともきれいだった」
どういうこと? タケルさんは尋ねた。どうもこうもない、言葉通りよと妻は静かに言ったという。
「離婚したいとか僕のことが嫌いになったとかいうわけではない。ただ、好きな人がいる、恋をしてしまった。それだけなんだ、と。僕にどんな答を求めているのかわからなかった。だけど次の瞬間、彼女が言ったんです。『苦しいの』と」
その苦しさがタケルさんに伝わってきた。好きな人がいてもどうにもならない苦しさが。もちろん、怒りはわいてきた。子どものいる40代の女性が言うことではないだろう、しかも夫に向かって。
「ただ、妻が言ったんです。『あなたにしか言えないの。ごめんね』って。ああ、本気なんだなと思いました」
そしてその言葉はタケルさんをますます苦しめた。
■妻は普通に暮らしているけれど
相手はどこの誰なのか、どこまでの関係なのか、どうするつもりなのか。聞きたいことは山ほどあった。だが、タケルさんは聞かなかった。
「その晩、妻と抱き合いました。彼女はすごく興奮していた。僕も興奮していた。妻は他の男ともしているのか、それはわからなかったけど、激しい嫉妬でおかしくなりそうでした。でもその中に、今まで感じたことのないような興奮と快感があったんです」
自分はおかしくなってしまったのかとタケルさんは思った。翌朝起きると、妻はいつものように朝食やお弁当の準備をしていた。それをいつものように手伝いながら、共働きのふたりはその日のスケジュールを確認しあった。
「なにも変わっていない。でも妻は恋している。そして僕は混乱している。そんな日々が続きました」
妻が残業だと言っても、男と会っているのではないかと疑惑が生じる。だが確かめることはできない。何か言ったらすべてのバランスが崩れ、「いつもの日常」が失われてしまうのではないかという危機感があった。それにもまして、疑惑と嫉妬による苦しみが妻への愛情を下支えしているような実感もあったのだという。
「あれから半年たちますが、今も僕は気持ちを整理できていません。相変わらず嫉妬に苦しみ、でも妻への愛情が強くなっているのも実感している。妻はたまに残業したり出張したりしていますが、本当かどうかは未確認です」
この状態に耐えている自分が好きというわけではないとタケルさんは言った。できることなら妻を全面的に取り戻したい。だが、ひとりの人間として見たとき、今の妻は魅力的だとも言う。さまざまな感情を自分の中に押し込めたまま、タケルさんはいつもの日常を大切に暮らしている。