日本の自動車メーカーが矢継ぎ早にラインアップを拡充した1980年代前半。富士重工業も満を持して新しいカテゴリーに参入する。軽自動車のレックスと小型車のレオーネの中間に位置するリッターカーの設定だ。今回は独自の機構を豊富に盛り込んで10年選手に発展した「ジャスティ」(1984~1994年)の話題で一席。
【Vol.93 スバル・ジャスティ】
1980年代初頭は多くの国産メーカーが1L~1.3Lクラスの小型2ボックス車に注目し、新世代のFFコンパクトカーの開発を積極化させていた。ダイハツ工業はシャレード、日産自動車はマーチ、本田技研工業はシティを発表し、日本におけるFFコンパクトカー・ブームを創出する。この状況に着目したのが、独自の技術で市場にアピールする富士重工業だった。富士重工業は軽自動車のレックスと小型自動車のレオーネとの大きな狭間に苦慮していた。ユーザーが上級車にステップアップするには、車格の差がありすぎる――。そこで同社の開発陣は、自社初のリッターカーの企画を本格的に推し進めることとした。
まずはエンジン。レックス用の直列2気筒のノウハウを活かしながら、ボア×ストロークを78.0×69.6mmに設定した997cc直列3気筒OHCユニット(EF10型)を新開発してフロントに横置き搭載する。3気筒のレイアウトを採用したのは、軽量化とコンパクト化を狙ってのことだった。振動対策としてバランスシャフトなども組み込む。パワー&トルクは63ps/8.5kg・mを発生。トランスミッションには5速MTを組み合わせた。ちなみに、富士重工業はこの新エンジンを使って、軽ワンボックスのサンバーをベースにした小型ワゴンの「ドミンゴ」(1983年10月デビュー)も開発する。パワー&トルクを56ps/8.5kg・mとしたEF10エンジンをリアに搭載し、3列式シートを組み込んだドミンゴは、スバリストのみならず多くのクルマ好きからも注目を集めた。
シャシーに関しては、新設計のプラットフォームに前マクファーソンストラット/後ストラットの4輪独立懸架機構を採用する。シンプルでクリーンなラインと面構成で仕立てたボディは、3ドアハッチバックと5ドアハッチバックの2タイプを用意。ボディサイズは全長3535×全幅1535×全高1390mm/ホイールベース2285mmに設定した。
■“4WDのスバル”らしい車種ラインアップで登場
富士重工業の新世代コンパクトカーは、まず1983年開催の第25回東京モーターショーにおいて「J10」の名でプロトタイプが参考出品され、翌84年2月に「ジャスティ」(KA型)の車名を冠して市場デビューを果たす。車種展開はスポーティ志向の3ドアとファミリー層向けの5ドアをラインアップ。それぞれのキャラクターに合わせて、専用の内装アレンジとサスペンションセッティングを施していた。
六連星を付けた新コンパクトカーのジャスティに対して、スバリストが最も注目したのは、その駆動機構だった。一般的なFF方式だけではなく、パートタイム4WDも設定していたのである。この4WD機構はレオーネなどと同じく2WD(FF)と4WDをプッシュボタンひとつで切り替えられる仕組みで、「4WDを用意するところがスバルらしい」と好評を博した。
■量産車初のベルト式無段変速機を搭載
スバリストを中心に大きな関心を集めたジャスティ。しかし、デビュー当初を除いて販売成績はパッとしなかった。ルックスがやや個性に欠ける、搭載エンジンが自然吸気の1L仕様しかないなど、強力なライバル勢と比べて存在感がやや薄かったのだ。是正策として富士重工業は、ジャスティの改良や車種設定の補強を精力的に実施していった。
まず1985年10月には、1気筒あたり3バルブのヘッド機構を組み込むEF12型1189cc直列3気筒OHCエンジン(73ps)を搭載した1.2L 4WDを追加。この時に冠した“火の玉BOY”という刺激的なキャッチフレーズは、後にスバリストたちの語り草となった。1986年2月にはホワイト・バージョンという限定車をリリース。好評のうちに完売したため、後にカタログモデル化された。そして、1987年2月になると画期的なモデルがデビューする。世界初の自動車用無段変速機となる「ECVT(Electro Continuously Variable Transmission)」を組み込んだ仕様だ。オランダのVDT社(Van Doorne Transmissie B.V.)が特許を持つスチールベルトと幅が可変式のプーリーを組み合わせた電子制御クラッチ式無段変速機は、ジャスティの発売とほぼ同時期に富士重工業が技術発表だけを行っていた。この新トランスミッションがいつ実車に搭載されるのか──当時、業界で話題を呼んだが、約3年後に追加されたジャスティECVTシリーズでついに開花したわけだ。ECVTの設定で販売にも勢いがつくかに思われたジャスティだが、しかし商業的にはいま一歩だった。シフトショックがなく、伝達効率にも優れるECVTではあったが、一般的なATよりもコストがかかり、それが車両価格に上乗せされたからだ。当時のユーザーがベルト式無段変速機のメリットにあまり魅力を感じなかったことも、人気薄の要因だろう。
苦戦が続くジャスティの販売。しかし、開発陣は懸命に商品力のアップを画策する。1988年11月にはマイナーチェンジを実施し、搭載エンジンをEF12ユニットに1本化。また、ボディのハイルーフ化(全高1420mm)および外装デザインの刷新や内装アレンジの変更、ECVT+4WD車の設定なども行った。さらに、1989年4月には特別仕様車のマイムを、1990年1月にはマイムⅡを発売。この2車は、後に一部仕様を変えてカタログモデル化される。そして、1992年3月になると充実装備の特別仕様車となるマイムⅡスーパーセレクトをリリースした。
マイムⅡスーパーセレクトの登場から7カ月ほどが経過した1992年10月、軽自動車とレガシィの間を埋める新しい中間車のインプレッサが発表される。翌11月より販売に移されたインプレッサは、スポーツグレードのWRX系とベーシックワゴンのCS/CX系を中心に好調な売れ行きを記録。この状況を鑑みた富士重工業は、1994年にジャスティの国内販売を中止した。ところで、ジャスティが後継車を開発することなく生産中止に至ったのは、決してクルマそのものの訴求力が足りなかっただけではない。実は当時の富士重工業の社内事情が大きく関係していた。1989年2月、富士重工業は新世代の中核車となるレガシィを発売し、これが予想以上に大ヒット。さらに、前述のインプレッサも受注を伸ばす。ここで問題となったのが当時の富士重工業の資本力で、市場の需要に応えるだけの生産設備の増強を整えるのが難しかった。そこで人気のない車種の整理、つまりジャスティの生産中止に踏み切り、その資金をレガシィやインプレッサの開発・生産に充てたのである。
商業的にはあまり成功せず、オリジナルモデルとしては1代限りで車歴を終える(日本市場では2016年にダイハツ・トールのOEM車として車名が復活)という衰運に見舞われたジャスティ。しかし、ベルト式無段変速機の画期的なメカニズムを搭載した世界初の量産自動車であるという事実は、決して色あせることはないのである。