10月5日~7日に鈴鹿サーキットで行われるF1日本グランプリは、今年のイベントで節目の30回目を迎える。初開催は1987年だ。そこから毎年開催していれば2016年に30回目を迎えていたはずだが、2007年と2008年は富士スピードウェイで開催されたため(おいおい、もう10年前か……)、2018年に30回目を迎えることになった。
母国開催ゆえの思い入れの強さからだろうか、忘れがたいシーンのオンパレードである。思い入れの強さは人それぞれだろうが、個人的には1988年がナンバーワンだ。ポールポジションを獲得したアイルトン・セナ(マクラーレン・ホンダ)がスタートでエンジンをストール。その後方、6番グリッド(!)にいた中嶋悟(ロータス・ホンダ)もエンジンをストールさせてしまった。
【1988年】「すげーな、セナ」…新記録の年間8勝をマーク
とんでもないことが起きるもんだと、当時、新宿の居酒屋で録画放送を見ていた筆者は思った(プロ野球を放映するようなノリで、当時はF1をフツーに流していたし、録画放送でも新鮮な気分で観戦することができた。SNSなどなかったので)。
セナは後方集団に飲み込まれたが、そこからが見せ場だった。自分の実力を誇示するためにわざとストールさせたのではないかと勘ぐりたくなるほど、いとも簡単に(見えた)追い越しを繰り返すと、51周レースの20周目にはイワン・カペリ(A・ニューウェイが設計したマーチ881。ホンダを筆頭にターボエンジン勢を向こうに回してNAエンジン車が“一瞬”だがトップを走ったのも、このレースのハイライトのひとつ)を追い抜いて2番手に浮上。前を行く僚友アラン・プロストとの差をジリジリと追い詰め、28周目の1コーナーで追い抜いた。
「すげーな、セナ」と居酒屋で録画放送を見ながらつぶやいたか、仲間と盛り上がったかは覚えていないが、印象には残っている。セナは当時新記録の年間8勝目を挙げ、初めてのタイトルを手にした。
【1990年】セナとプロストが鈴鹿の砂塵に消えていった…
1989年はタイトルを争うセナとプロストがシケインで接触。1990年は1周目の1コーナーで絡み、砂塵に消えた。1年1年追っていくとキリがないので飛ばし気味にいくと、96年の鈴鹿は、ルーキーのジャック・ビルヌーブ(ウイリアムズ・ルノー)とチームメイトのデイモン・ヒルによるタイトル決定戦となった。ポールポジションを獲ったのは、逆転チャンピオンを狙うビルヌーブ。だが、スタートに失敗して出遅れてしまう。
ここまでは1988年のセナと同じだが、あのときのセナほどのスピードはなく、ビルヌーブは4~5番手あたりで停滞すると、37周目にホイールの脱落をきっかけにコースアウトして万事休す。ヒルのタイトル獲得が決まった。
【1998年】シューマッハの重圧から逃れたハッキネンが勝利
1998年の鈴鹿は、ミカ・ハッキネン(マクラーレン・メルセデス)とミハエル・シューマッハ(フェラーリ)のタイトル決定戦となった。逆転タイトルを狙うシューマッハはポールポジションを獲得したがお約束どおり(?)、エンジンをストールさせてしまう。だが、セナやビルヌーブと違ってスタートシグナル前だったので最後尾に回され、仕切り直しでスタートに。シューマッハの重圧から解放されたハッキネンがレースを制して初タイトルを獲得した。
この頃の日本GPはシーズンの最終盤に組み込まれていたため、タイトル決定の舞台になることが多かった。今年の場合は全21戦中の第17戦である。ドライバーズタイトル争いでは、ルイス・ハミルトン(メルセデス)がセバスチャン・ベッテルに大差をつけてリードしているが、計算上、鈴鹿でタイトルが決定することはない。
【2002年】“鈴鹿スペシャル”で佐藤琢磨が入賞
ドラマチックなレースという意味では、2002年の鈴鹿も外せない。前年にイギリスF3チャンピオンになった佐藤琢磨はこの年、ジョーダン・ホンダから鳴り物入りでF1デビューを果たした。しかしシーズンを通じて苦戦を強いられ、入賞ゼロの無得点で母国GPを迎えていた。
ホンダは出力アップを果たした“鈴鹿スペシャル”を日本GPに投入していた。しかし信頼性が確保できておらず、琢磨以外のホンダ・エンジン・ユーザー3台はエンジントラブルにより相次いでリタイヤ。残るは琢磨だけになった。その琢磨は53周レースの6周目には当時の入賞圏内(現在は10位以内)の6番手に順位を上げると(予選7番手も大殊勲だった)、終盤の48周目には5番手に浮上した。
不思議なことに(?)、琢磨のエンジンにだけトラブルは発生せず、見事5位に入賞する。優勝したM・シューマッハに、「このレースにはウイナーがふたりいる。僕とサトウだ」と言わしめた。実際、鈴鹿サーキットは大騒ぎだった。
【2010年】「抜けない鈴鹿」で追い抜いた小林可夢偉
先を急いで最後のエピソードに移ると、後方からの鮮やかな追い上げは、1988年のセナだけではなかった。2005年のキミ・ライコネン(マクラーレン・メルセデス)を忘れるわけにはいかない。17番グリッドに沈んだライコネンはオープニングラップで一気に5台を追い抜いて12番手に順位を上げると、レース中盤に2番手に浮上。そして、最終ラップの1コーナーでジャンカルロ・フィジケラ(ルノー)を果敢に追い抜き、トップでチャッカードフラッグを受けたのだった。
「抜けない鈴鹿」での追い抜きはドラマになる。その意味で、戦闘力が高いとはいえないザウバーを駆り、ヘアピンで5台ものマシンを料理した 2010年の小林可夢偉の活躍も記憶に残る(この年は7位入賞。2012年の3位表彰台は、当然のことながらハイライト)。
ライコネンは2019年にザウバーに移籍すると発表しているので、「フェラーリのライコネン」は今年の鈴鹿が見納めとなる。付け加えておくと、「2019年はF1に乗らない」と宣言した、お騒がせなフェルナンド・アロンソ(マクラーレン・ルノー)の見納めでもある。