「それでリナちゃん、引っ越しはどうするの? やっぱり武蔵小杉?」
昼下がりのカフェ。カウンターに肘をのせ、女性スタッフに親しげに話しかける男性がいた。年齢は、60~70代だろうか。服装はカジュアルで、特段不潔には見えない。
「う〜ん、まだ迷ってるんですよぉ」
“リナちゃん”はコーヒーをセットしながら、笑顔で答えている。
「溝の口なら昔住んでたけど、小杉はわからんなぁ」
この男性、ひとしきり“リナちゃん”と話したあと今度は別のスタッフに声をかけ、新しい客が来たのを機に店奥に引き上げた。カウンターを去る前には「スタッフオンリー」のドアを開けて中に声をかけ、「やっぱ、前のハムの方がうまかったよなぁ!」なんて言っていた。
一連の様子を見ていた私は、てっきりこの男性をカフェのオーナーか何かだと思った。だが果たして、店奥に目をやると、隅っこにある4人掛けの席に男性の“城”とおぼしきものが築かれていた。
椅子の背には上着、座面には私物らしいひざ掛けが敷かれ、荷物がぱんぱんに詰まったバッグと紙袋がひとつずつのっている。さらに新聞、週刊誌、パズル雑誌、薬袋などが無造作にテーブルに置かれ、とっくに空になったコーヒーカップは端に追いやられている。そのそばには、水滴がびっしりついたお水のコップがあり、彼がずいぶん長い時間、ここで過ごしていることを窺わせた。
店を出るとき、店員さんたちの会話が耳に入った。
「今日は○○さん、何時ごろ来た?」
「いつもと同じ、開店と同時にインでしたよ」
「そっかぁ……」
○○さんというのは件の男性のことらしく、どうやら彼は毎日開店と同時に現れ、自分の“城”を作り、まるで家族のようにスタッフに話しかけ、閉店まで逗留しているようだった。
実は、この男性のような人を見るのは初めてではない。それどころか、近頃こういう老人を大変多く見かける。もちろん、違う場所の違う店で。いつぞや、世田谷にある某シアトル系コーヒーの上級店には、高齢女性が“常駐”していた。ハイクラス店だけあり、スタッフも感じのよい美男美女ぞろい。なかでも向井理似の店長は、女性客の大いなる関心を買っているようだった。高齢女性はほぼずっと店長に張り付いており、彼がレジ対応しているときだけ脇に避けていた。
そうして、
「昨日、蘭の花が咲いたの。あんたに見せたい」とか、「こないだ話した軽井沢の別荘、ぜひ来てちょうだい」などと話しかけ、女性スタッフには、「もう着けないペンダントがあるから、あんたにあげる」なんて言っている。
これが“家の中”、“おじいちゃん、おばあちゃんの家”だったなら、間違いなく“可愛い孫に接する優しい祖父母の図”である。
だが違う。
こういう人たちは、徘徊老人ならぬ〝徘カフェ老人〟とでも呼ぶべきか。長時間、仕事や勉強で場所を占めているとか、わかりやすいマナー違反があれば別だが、そうでなければ注意もしづらい。
かつて、今よりは当たり前にあったであろう“おじいちゃん、おばあちゃん”の居場所がなくなっている。優しく接してくれる“孫”たちもいない。もはや享受しにくくなった愛情とリスペクトを、カフェの優しいスタッフで補填しようとする人が増えたのは、起きるべくして起きたことと言えそうだ。
親切でルックスもいい青年や女性が、コーヒー一杯の値段、あるいはタダで(!)満たされぬ寂寥を埋めてくれる。それはおそらく、すがらずにいられぬ救い。
キャバクラに行くでも、ホストに貢ぐでもなく、ましてや地下ドルに入れ込む術も持たない。徘カフェ老人が漂うのは、闇と呼ぶにはまだ淡く切ない薄闇。
そんな薄闇が巣くうカフェは、日ごとに数を増している。
※情報は2018年9月28日現在のものです